鈴子さんは、頬を薔薇色にほんのり染めて、笑っていた。
「花梨ちゃん、わたしね、結婚を考えてるひとがいるの」
あたしは16歳に、鈴子さんは40歳になっていた。
背が伸びて、乳房もふくらんで、身体だけは大人になったあたしとは裏腹に、鈴子さんは、何一つ変わっていなかった。笑顔も、声も、ひかえめなその佇まいも、やわらかな蜜柑の匂いも。
ひとつだけ変わったのは、いつもはただただ白かったその頬が、薔薇色に染まっていること。
5年前、鈴子さんは青い屋根の家を出て、電車で3駅ほど離れた町に引っ越した。あたしは最後まで泣いて嫌がったけど、一度大人が決めたことを引っ繰り返すほどのチカラは、子どものあたしにはなかったのだ。
でもあたしは、しつこくしつこく抵抗して、鈴子さんと会う権利だけは奪わせなかった。
引越しから3日経った土曜日の午後、あたしは電車に乗って、鈴子さんに会いに行った。駅前でケーキを2つ買い、鈴子さんが書いてくれた地図を見ながら、見知らぬ町を歩いた。
スーパー、花屋、コンビニ。目印を見落とさないように注意深く見渡しながら歩く。小さな郵便局のある角を曲がってすぐ、右手に見えた白い壁のマンションが鈴子さんの当たらしい家だった。
壁にずらりと並んだ郵便受けを横目に見ながら、分厚いガラスのドアを開け、エレベーターに乗り、3のスイッチを押す。
306号室、心の中で繰り返しながらコンクリート製の廊下を歩く。目当ての数字を見つけ、インターホンを押す。
「はあい」
機械越しに聞こえた声。たった3日離れていただけなのに、ひどく懐かしく響いた。
「鈴子さん、あたし。遊びにきたよ」
鈴子さんの部屋は、新築ではないけど、1DKでバルコニーつき、日当たりも良い、好条件の部屋だった。
引越しから3日だというのに、部屋の中はすでにずいぶん片付いていた。
「もう荷物片付けたの?早いね」
「ええ、早く片付けないとなんだか落ち着けなくて」
ケーキの箱を冷蔵庫にしまいながら鈴子さんが答えた。
「ふうん」
鈴子さんらしいな、と思った。あの青い屋根の家も、いつもきちんと片付いていた。ごちゃごちゃといつも散らかっているあたしの部屋とは大違いで。
「ねえ、前の家もそうだったけど、この部屋も、鈴子さんの家って感じがするね」
「どうして?」
「違和感がないんだよ」
鈴子さんそのものみたいに、あたしをすんなり包んでくれる。
「違和感がない?どういうこと?花梨ちゃんてときどき、よくわからないこと言うわね」
鈴子さんはくすくすと笑った。
台所に置かれた、こじんまりとしたテーブル。その上にはピンク色の薔薇が生けられた一輪挿し。そして、たっぷりの紅茶が注がれた、鈴子さんとあたしのマグカップ。
2脚あるイスの片方に座ったまま、あたしは鈴子さんの薔薇色に染まった頬を見つめた。
鈴子さんは紅茶入りのポットを片手に立ったまま、あたしの反応を窺っていた。
10年前、あたしたちは出会った。
有象無象っでごったがえした葬儀の会場で、ひっそり佇んでいた鈴子さんは、まるであたしを待っているように見えた。
14歳の年齢差も、置かれた立場の複雑さも、なにもかもを越えて、あたしたちは、ずっとずっと昔からそうだったみたいに、結びついたのだ。
あたしは鈴子さんを求め、慕い、鈴子さんはあたしを受け入れ、慈しむ。
これからもずっとこのままだと、変わらずにいられると、あたしはそう思っていた。
だけど鈴子さんは結婚すると言う。
あたしではない誰かを愛し、生涯を共にすると、そう言う。
眩暈がした。
いつも変わらない、鈴子さんの笑った顔。
いつもと違う、薔薇色に染まった頬。
いつも変わらない、蜜柑の匂いが微かに漂う、きちんと片付けられた部屋。
いつもはなかった、鈴子さんの左手の薬指で光るゆびわ。
「ちがう」
違和感。
違和感があたしの中に渦巻いて、思考を、感情をかき乱してゆく。
「え?」
突然立ち上がったあたしを、鈴子さんは不思議そうに首を傾げて見た。あたしはその腕をつかんで、白い壁に押し付けた。がんっと思いがけず大きな音が響いて、鈴子さんの顔が苦痛に歪む。
「なに?花梨ちゃん、痛い…」
眉を顰めて苦痛を訴える鈴子さんを、身体全体を使って壁に押さえつけた。
いつのまに、あたしはこの人の身長を越していたのだろう。見下ろした先にある鈴子さんの戸惑った顔を見ながら思った。
そっと、くちびるを近づける。さっきまで薔薇色に染まっていた頬は、心なしか青ざめている。
苦々しい思いが胸の奥にこみあげてきて、振り払うようにあたしは、そのやわらかく冷たい頬にくちづけた。
ふわりと、蜜柑の匂いがした。