きみどりカンバス







油絵の具の匂いがして、目が覚めた。
んー、と唸りながら伸びをひとつ。
さらりとしたシーツの感触が剥き出しの手足に気持ちいい。
ふと気づいてレモンがいるほうに手を触れてみると、そこに求めた姿はなく、白いシーツは既に冷えきっていた。
(レモン、起きてる)
ぼんやりした頭をシーツから出すと、朝の光と優しい声がわたしのもとに降り注いだ。
「おはようヒスイ」
カンバスに向かうレモンは少し癖のある長い髪をひとつに束ね、Tシャツとジーンズと、ところどころ絵の具で汚れた黒いエプロンを身につけ、すっかり画家モードに入っている。
どうやら混色の真っ最中らしい。
レモンイエローとグリーンの絵の具をチューブから搾り出し、パレットに乗せ、筆でさっくりと混ぜ合わせる。
お菓子をつくっているみたいな大雑把で美しい手順。
じっと眺めていると、レモンはわたしの視線に気づいて微笑んだ。
「まだ寝惚けてる?」
わたしはシーツにくるまったまま首を横に振る。
レモンはパレットと絵筆を近くの机において、ベッドの中のわたしに近づいてきた。
混色は終わったらしい。
「おはようレモン」
寝起きのかすれた声で告げると、レモンは聖母のようにゆったりと笑いわたしの頬に優しいくちづけをした。


午前中のアトリエは天窓から降り注ぐ日光があたりを真っ白に染めていて、乾いた匂いがする。
しん、とした部屋に響くのは、すう、と筆の滑るかすかな音だけ。
絵を描いているときのレモンの顔は静謐とした緊張感をはらんでいる。透明なグラスから零れ落ちそうな水のように。
レモンはさっき作ったきみどり色を使ってカンバスを塗っていた。
その視線の先には、白いシーツにくるまったままベッドに横たわるわたし。真剣な黒い瞳に見つめられるとわたしはなんだか裸にされたような気持ちになる。
それでいて、決してわたしたちが混ざり合うことはないのだと思い知らされているような気持ちにもなる。


「わたしの絵のモデルになって」
出会ったその日、挨拶もなにもなしにいきなりこう言い放ったレモンのアーモンド形の真っ黒い瞳は真剣そのもので。
なんだか有無を言わせない凄みがあって。
その瞳に魅入られたわたしはほとんど何も考えられず、云われるままにうなずいていた。
以来ずっとわたしはレモンのアトリエで、レモンに言われるがままにポーズをとってきた。立ったり、座ったり、ソファに横たわったり、服を脱いで裸になったり。
そしていつのまにか二年の月日が過ぎ、レモンのアトリエはわたしの絵で埋め尽くされた。どの絵もぜんぶ、きみどり色で描かれたわたし。


今日もレモンはカンバスにきみどりを重ねてゆく。
目映いレモンイエローとしっとりとした深いグリーンがカンバスのうえでぐるぐるとまざりあい、それに反比例するようにわたしのこころは苦い苦いきみどり色の罪悪感に染まっていく。
(まざりあう色と、まざりあわないこころ)
わたしは、レモンがわたしを愛してくれるぐらいに、レモンを愛せているだろうか。


「見て、ヒスイ」
不意に呼びかけられて、わたしははじかれたように顔を上げる。
レモンはさっきまで向き合っていたカンバスを、今度はわたしのほうへ向けて微笑んでいた。
「できたわ」
カンバスの中のわたしは、イエローがかったきみどり色に彩られて、ぼんやりと遠くを見ている。
いつかきみどり色がレモンイエローに呑み込まれる日を想像して、わたしは息を飲んだ。














侵食する/侵食される、その行く末はどんな色なんだろう?
混ざり合うかんじょうの比重はけっして均等じゃない。
結末がうつくしいか、うつくしくないか、決めるのは当事者ふたり。
 









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