「花梨ちゃんは蜜柑色のサマードレスがよく似合うわね」
にこやかな顔で、おっとりとした口調で、鈴子さんはあたしを褒めた。
「ありがとう」
しゃくしゃくと噛んでいたすいかを飲み込み、あたしはお礼を言った。鈴子さんはにっこり笑って、縁側に座るあたしの傍らに麦茶で満たされたグラスを置いた。グラスの表面はびっしょり濡れていて、縁側にちいさな水溜りができた。
鈴子さんはオレンジ色のことを蜜柑色と呼ぶ。蜜柑色、といわれるとなんだか温かい感じがするのはあたしだけだろうか。オレンジ色って言うときよりも、どことなく深くて、おいしそうな印象がする。
「花梨ちゃんは蜜柑色が好きなの?」
あたしの隣に腰を下ろして麦茶を飲みながら鈴子さんが聞いた。どうして?と返したかったけど、あいにくすいかで口の中が埋まっていたので、言葉を発するかわりに首を傾げてみせた。
「このサンダルも、蜜柑色のお花がついてるから」
言われてみればたしかにそうだ。そういえばペンケースも、体育着入れも、ヘアゴムも、蜜柑色のものを使っている。
「無意識だった」
すいかを飲み込んであたしは言った。
「あたし、無意識に、蜜柑色のものを選んでるみたい」
「まあ、そうなの」
鈴子さんは麦茶を飲み干し、愉しそうに笑った。
11歳の夏休み、あたしはほとんど毎日、鈴子さんの家に通っていた。
鈴子さんはいつも自分の部屋で本を読んだり、パソコンにむかって原稿を書いたりしていた。
翻訳のお仕事だ。18歳のときにお母さんを亡くし、ひとりで生きていかないといけなくなった鈴子さんは、奨学金をもらって大学に行き、フランス語の翻訳家になるための勉強をした。
「本が好きだったし、手に職をつけようと思ったの」
翻訳家になった理由を聞いたら、鈴子さんはそう言った。シンプルな理由が鈴子さんらしいと思った。
あたしは夏休みの宿題を持ち込んで、お仕事をする鈴子さんの横で一緒に勉強した。
鈴子さんが休憩するときは一緒に休憩した。縁側にふたり並んですいかを食べたりアイスを食べたりするのが、あたしたちの休憩スタイルだ。
鈴子さんは、あたしの家から自転車で15分ほどのところにあるこじんまりとした古い家に、たったひとりで住んでいる。お母さんより10歳若くて35歳。お姉さんというには歳をとっていて、おばさんというには少し若すぎる、そんなひとだ。
あたしが鈴子さんと出会ったのは5年前、おじいちゃんのお葬式だった。あたしはその頃まだ6歳で、周りのおとなが鈴子さんを「めかけの子」と呼んでいるその言葉の意味がわからなかった。
でもひっそりとした、まるで道端の露草のような、ささやかでうつくしい佇まいの鈴子さんにあたしはとても興味を引かれて、思わず近寄っていって、鈴子さんの手をひっぱってしまった。
鈴子さんは突然やってきた幼いこどもに一瞬目をまるくしたが、すぐにおっとりとした微笑を浮かべた。
「なあに、おちびさん?」
「花梨!」
気づいたお母さんが、大きな声であたしの名前を呼んだ。焦ったように自分を呼ぶ、その理由がわからなくてきょとんとしていると、鈴子さんは腰をかがめて、あたしと視線をあわせた。
「かりんちゃんていうのね、おかあさまが呼んでるわよ」
「あとであたしと遊んで?」
「わたしみたいな知らないひとと遊んだら、おかあさまが心配するわ」
資産家の家に生まれたひとり娘の傾向として、甘やかされ放題、わがまま放題だったあたしは鈴子さんのやんわりとした拒絶を無視して言い募った。
「いや、遊んで」
鈴子さんが困ったように笑った。その笑顔にちくりと胸が痛んだけれど、ひんやりとした、ちいさくて白い彼女の手をあたしはどうしても離したくなかったのだ。
「ごめんね。それはできないの」
「やだー…」
泣きそうになって、でもここで泣くのはなんだか癪で、俯いて涙をこらえたあたしの耳元で、内緒話をするように鈴子さんは言った。
「みどり公園のお向かいの青い屋根の家。庭におおきな桜の木があるわ」
暗号めいたその言葉は、鈴子さんが暮らす家への招待状だった。
お葬式の次の日、ちいさな自転車をこいでみどり公園へ行った。向かいの青い家を見つけて、門の前に自転車を止める。こげ茶色の金属製の門扉を開けて、中を覗き込むと、鈴子さんは縁側に座って本を読んでいた。
「こんにちは!」
大きな声で挨拶したら鈴子さんは顔を上げ、ゆっくりと微笑んだ。その日からあたしたちは友達になった。
当然のことながら、鈴子さんとあたしが会うことをおばあちゃんは快く思わない。最愛の孫娘と、夫の愛人の娘が仲良くしているのだから心穏やかでいられるはずはない。
おばあちゃんの苛々はもれなくお母さんに向けられる。だからあたしが鈴子さんの家から帰ってくるたび、ほとんど悲鳴のような声でお母さんはあたしに言う。
「花梨、あのひとの家にいくのはやめなさい!」
あたしはそれを無視する。
今日のぶんの宿題を終えてしまって退屈になったあたしは、いまだパソコンにむかっている鈴子さんの横で、本を広げた。鈴子さんが翻訳した、フランスの小説だ。しばらくその文章を読んでいたけど、最初の3ページくらいで疲れてしまった。あたしは鈴子さんと違って本が苦手なのだ。
「無理しなくていいのよ」
あたしの様子に気づいた鈴子さんがちいさく笑った。
「大人になったら、この本、難しくなくなるかな…」
本を閉じて、ぐでーっと畳のうえで伸びをする。
「そうね」
あたしの髪を鈴子さんの手がゆっくりと梳いた。
「早く大人になりたいなぁ」
髪を梳かれながら鈴子さんのほうを見たら、彼女は首を横に振っていた。
「急いで大人になんてならなくていいの。もったいないでしょう?」
そんなものなんだろうか。
「花梨ちゃんは花梨ちゃんのペースで、ゆっくり大人になりなさい」
そういってにっこり笑った鈴子さんは優しくて、化粧もしてないのにとても綺麗だった。
夕方になって、家に帰ると、お母さんがあたしの部屋で待ち構えていた。
「もうあのひとの家に行くのはやめなさい」
あたしは返事をせず、かばんを床に放り出した。
「お母さんもおばあちゃんも我慢の限界なの」
すごく怒っているとき、お母さんの声はいつもよりちいさくなり、低く震える。あたしは椅子を乱暴に引っ張り出して、お母さんに背を向けて座った。
「お母さんね、昨夜、あのひとに電話をしたの。この町を出ていってください、お金はこちらが出しますから、て」
「え…?」
そんなこと鈴子さんはひとことも言わなかった。素振りすら見せなかった。
「あのひと、わかりました、て言ったわ。一週間のうちに荷物をまとめて出て行くそうよ」
それだけ言うと、お母さんは、背を向けたままのあたしの髪をさらりと撫でて、ドアを開けて出て行った。
教えてくれたのはお母さんなりの愛情だったのかもしれない。鈴子さんにいい感情を持っていないのはおばあちゃんであってお母さんではなかったから。
あたしは自転車の鍵をつかんで家を飛び出した。お母さんは何も言わなかった。
みどり公園の向かいの青い屋根の家。門扉は開けっ放しになっていて、鈴子さんは玄関先を掃除していた。あたしは自転車をとめて、鈴子さんの前に立った。
「どうして何も言わなかったの?」
鈴子さんは答えない。
「ここを出て知らない町に行くつもりだったの?ひとりで?」
「ええ」
「そんなのダメだよ!」
あたしは鈴子さんに抱きついた。その勢いに、取り落とされた箒がばたんと派手な音を立てて地面に転がる。
「花梨ちゃん…」
ぎゅうぎゅうと抱きつかれながら、鈴子さんはぽつりとあたしの名前を呼んだ。耳元に響く声に、自分の背が、小柄な鈴子さんと同じくらいになっていたことを知る。それだけの時間を一緒に過ごしたんだ。そう思うと、のどの奥がぐっとなって涙が出そうになった。
「花梨ちゃん、わかって?わたしがここにいると、花梨ちゃんのおうちに迷惑がかかるもの。ただでさえお世話になっているのに、ご迷惑をかけちゃいけないわ」
「いやだ、そんなのわかりたくない!どうして鈴子さんがそんなこと考えるの?鈴子さんは何も悪くないのに!あたしは誰に何を言われても鈴子さんのところに遊びにくるよ。だって友達じゃん。そう思ってたのはあたしだけなの?」
黙りこんだ鈴子さんから体を離す。目がこころなしか潤んでいるように見えた。くちべにを塗ってない薄いくちびるが無理矢理笑みをかたちづくる。
鈴子さんはいつもこうやって無理に笑う。傷つけられるたびに無理に笑う。それがあたしには悲しくて。
「あたしが本当にすきなのは鈴子さんだけだよ。だいすきな友達を守ってなにが悪いの?」
泣き出してしまったあたしを、鈴子さんが困ったようにみつめた。泣き出しそうな、だけど決して泣いたりなんてしないと決意したような、不思議な表情で。
あたしみたいに、気に入らないとわんわん泣くという行為が、鈴子さんはできないのだ。だって彼女は大人だから。「大人」という枷は鈴子さんから自由を奪う。息苦しく狭い場所へと鈴子さんの心を追いやってしまう。
だけどあたしは子どもだから、思い切り泣いてやる。泣いてすがって彼女の本音を引き出してやる。それがあたしの役目なのだ。
「鈴子さんだって、あたしと遊ぶのすきでしょう?ちがう?」
鈴子さんはゆっくり首を横に振った。ふわり、と香水のにおいがしたと思った瞬間、あたしは彼女の細い腕のなかにいた。
「ちがわないわ」
あたかかくて、胸が痛くなるような甘酸っぱい蜜柑の香り。鈴子さんの香り。蜜柑色が好きな理由がわかった気がした。あのとき、おじいちゃんのお葬式があったあの日も、鈴子さんは蜜柑に似た香りの、この香水を少しだけつけていて、白くちいさな手は、蜜柑のにおいがした。
大丈夫。あたしは、鈴子さんが思ってるほど弱くないよ。たしかにまだまだ子どもだけど、でも、鈴子さんに護られるだけのあたしじゃない。あたしだって、あなたを護ってあげられる。
優しさは、すなわち強さ。
大人でも子どもでも、誰かを護ると決めたら、人はきっと強くいられる