月の明るい真夜中、うす青く染まった廊下を渡って、瑞樹はわたしの部屋にくる。
白い頬を涙で濡らしながら、ベッドで眠るわたしを揺する。
「皐月、皐月」
「…ん?」
目を覚ますと、瑞樹はわたしに抱きついて静かに泣く。
「瑞樹、だいじょうぶ。淋しくないよ。わたしがいるからね」
わたしはベッドサイドに灯りを点し、引き出しから美しい細工の施されたツゲの櫛を取り出し、瑞樹の見事な濡れ羽色の髪を、ゆっくりと梳かす。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
しっとりとやわらかな彼の髪はうつくしい。例えるならばそれは、雨に濡れた木の葉に包まれ束の間の休息をとる烏だ。つやつやと濡れた黒い翼、その羽の一本一本の慎ましやかで、でもどこか野蛮なうつくしさを、その内に孕んでいる。
十八になった瑞樹の身体は、わたしよりも大きくなった。あいかわらず痩せてはいるけど、手足は健やかに長く伸び、体つきも男のそれになり、やわらかく愛らしかった顔立ちは硬質なうつくしさを帯びた。
だけどこの濡れ羽色の髪だけは、そのつややかな感触だけは、十年前から変わらない。
十年前、瑞樹は突然やってきた。父は瑞樹をわたしの兄だといった。でも瑞樹は、それはそれはうつくしいこどもで、漆黒の髪は艶々と流れ、しろい肌は陶器のようにすべらか、長い睫に縁取られた瞳は黒く、つよい生命と鋭い理知を宿し煌いていた。
彼とわたしが兄妹だなんて、たちの悪い冗談としか思えなかった。だって、わたしは愛らしくも賢くもないこどもだったから。お父さんの一代で財をなした才能と、お母さんの華やかな美貌を、これっぽっちも受け継がなかった哀れなこどもだったから。
「今日から瑞樹も一緒に暮らす。仲良くしてあげなさい」
幼いわたしにとって父の言葉は絶対だった。疑問を挟むことも不本意な感情をあらわにすることも、できるはずがない。
瑞樹が来て1週間が過ぎたある日の午後、わたしは瑞樹を庭に連れ出して、犬のナツと遊んだ。
ナツは二年前、家の前に捨てられていた犬で、茶色いふわふわの毛をしていた。ナツは瑞樹が気に入ったらしく、しきりにじゃれついては、ふさふさの尻尾を振り、白くやわらかなほっぺたを舐めていた。
ナツは、人見知りの激しい犬だ。ナツがこの家の住人の中でなついていたのは、わたしと、もうひとり、ごはん係りをしてくれている家政婦のおばさんだけだった。
そんなナツを、出会ってすぐ手なずけた瑞樹。わたしの持っていないものをたくさん持っているのに、さらにナツまで手なずけてしまう瑞樹。
仲良くしなさいと言われた手前、彼を嫌うわけにはいかなくて、胸のなかにもやもやと迫ってくる黒い感情を懸命に振り払う。
「ナツ?」
瑞樹のいぶかしげな声にはっと我にかえる。さっきまで瑞樹にじゃれていたナツがぴくりと顔を上げ、遠くを窺うように見ていた。
どうしたのナツ、と声をかけようとした瞬間、きょとんとしている瑞樹をほっぽり出してナツは門まで全速力で走っていってしまった。
「待って、そっちいっちゃだめだよナツ!」
わたしはナツを追いかけて、門のところで誰かに向かってしきりに吠え立てるナツを捕まえた。
「あの、ごめんなさい」
ナツが吠え立てていたのは、赤い服を着た女のひとだった。顔色は悪く、身だしなみもすさんでいたけど、濡れ羽色の黒髪と、野蛮でうつくしい瞳をしていた。わたしははっとした。女の人の容貌は瑞樹によく似ていたのだ。
「あなたが皐月ね」
ぽつりと問われて、わたしはこわごわうなずいた。女の人は微笑み、青白い手を伸ばしてわたしの頭を撫でた。荒んだ様子と狂気じみた瞳からは想像できない、ぞっとするほどやさしい声だった。あとを追ってきた瑞樹が、わたしたちを見て立ち止まる気配を背中に感じた。
「かあさん?」
「瑞樹、迎えにきたよ」
女のひとはうれしそうに微笑んで、瑞樹を思い切り抱きしめた。それから瑞樹の手を引いてどこかに行こうとしたので、思わずわたしは瑞樹のもう一方の手を掴んでいた。
「待って、わたしも連れて行って」
どうしてあんなこと言ったのかわからない。
ただ、女のひとに抱きしめてもらった瑞樹をうらやましいと思った。わたしはおかあさんにあんなふうにしてもらったことがなかったから。あんなに愛しそうに名前を呼ばれたことなんてなかったから。
「いいわよ」
だから瑞樹のおかあさんがそういってくれたとき、わたしはすごくうれしかったのだ。
わたしたち三人が向かった先は、くたびれたアパートの一室だった。そこはもともと瑞樹が住んでいた家らしく、瑞樹はわたしの家にいたときよりもずっとくつろいで安心していた。
瑞樹の母さんはというと、来る日も来る日もずっとお酒ばかり飲んでいた。(アルコール中毒という、お酒なしではいられない病気なのだということは、瑞樹がそっと教えてくれた)そして、立つのもままならないくらい酔うたびに言った。
「ねえ皐月、わたしあんたが気に入ったわ。わたしの瑞樹はあんたにあげるから、あんたはずっと瑞樹のそばにいてね。わたしあんたの父さんと母さんは大嫌いだけど、あんたはなんだか好きだわ、瑞樹とよく似てるもの。まるであたしの子みたいに思うわ」
酒のせいで枯れた声で、ろれつのまわらない舌で熱心にそう語る彼女を見ていると、家にいるおとうさんやおかあさんより、彼女のほうがわたしの本当の親のような気がした。不思議だった。ちっとも似てなんかいないのに。
瑞樹のおかあさんは、時折、洗面台に赤い赤い血を吐いた。そんなとき、苦しそうに吐血する痩せた背中を、わたしと瑞樹は一生懸命さすった。ぱさぱさに乱れた、かつては艶やかに美しかったであろう長い濡れ羽色の髪を見つめながら、こどもながらに、このうつくしいひとはもうすぐ死ぬのかもしれない、と思った。そしてその想像に怯えて、背中をさする手にちからをこめた。
血を吐いたあとはいつも、瑞樹のおかあさんは倒れこむように眠った。彼女が寝ている間、わたしと瑞樹は部屋のすみでうずくまって、あやとりや折り紙、手遊びをした。そして時折、眠る彼女のそばにいって、呼吸をしているか、心臓が音を立てているか、ふたりで確かめた。
何度目かの確認を終えたとき、不意に瑞樹が言った。
「かあさんはもう、内臓がぼろぼろなんだ。お酒のせいで」
静かな声だった。
「いつ死んでもおかしくない、てかあさんが言ってた」
「わたし、瑞樹のおかあさん、好きよ」
涙がこぼれそうになって、それを瑞樹に知られたくなくて、わたしは一生懸命言った。
「死んでほしくないよ。死んだらやだよ。だって、」
瑞樹のおかあさんは、わたしのおかあさんやおとうさんよりずっとわたしを可愛がってくれた。わたしを好きだと言ってくれた。そう言いたかったのに、声が詰まって、言葉にならなかった。
多忙な父は家でわたしの相手をすることなど稀だった。相手をしたところで、学校はどうだとか、勉強はどうだとかそんなことばかり。わたしの頭を撫でたり、抱きしめたり、そんなことはしてくれなかった。
うつくしい母は、華やかに着飾って「お友達」と買い物をしたり食事をしたりすることに夢中だった。「お友達」はいつも週一回、高級車で迎えに来た。わたしが一緒に連れていってもらえることはなかった。
わたしのおとうさんとおかあさんは、わたしの瞳をみて、話しかけて、あたたかな声で好きよと言ってくれたりなんてしなかった。そんなことをしてくれたのは瑞樹のおかあさんだけだった。
涙で滲む視界の中、瑞樹はじっとわたしを見つめていた。もうだめなんだよと黒い瞳が告げていた。
ひとつしか違わないはずの瑞樹がやけにおとなに見えて、なんだか急に悲しくなって、わたしは瑞樹の華奢な腕のなかで声を殺して泣いた。すがりついたわたしを、瑞樹はぎゅっと抱きしめてくれた。瑞樹のからだはあたたかく、甘くやわらかなこどもの匂いがした。
わたしたちが一緒に暮らすようになって三日目の朝、瑞樹のおかあさんは、わたしたちの髪を丁寧に梳いてくれた。
彼女はわたしのおかっぱに切りそろえられた髪を慈しむように梳き、次に瑞樹の濡れ羽色の髪を梳いた。櫛で梳くたびに、瑞樹の髪の艶やかさは増していった。その様子を食い入るようにみつめていると、瑞樹のおかあさんは、荒れたくちびるをゆるめて微笑み、言った。
「ねえ皐月、これからはあんたが瑞樹の髪を梳かしてやってね」
驚いて見上げたわたしの手に、彼女はさっきまで使っていたツゲの櫛を握らせて、念を押した。
「おねがいよ」
父がわたしたちを見つけたのはその直後だった。
わたしと瑞樹は家に連れ戻され、瑞樹のおかあさんはそのまま病院に送られた。
でも、瑞樹が言ったように内臓がぼろぼろになっていた彼女は、一週間後の真夜中、静かに息を引き取った。その報せが来たとき、わたしと瑞樹はこども部屋に閉じ込められていた。瑞樹は悲しそうに煌々と輝く月を見ていた。
その日を境に、瑞樹はときおり、泣き出すようになった。それはたいてい、瑞樹のおかあさんが死んだときのような月の明るいしんとした真夜中で、瑞樹は鼻をすすって静かに泣きながら、ベッドで眠るわたしを揺り起こした。
わたしはそのたびに起きて、あのときもらったツゲの櫛を取り出し、瑞樹をベッドに座らせて、その濡れ羽色の髪を梳いた。そうするといつも瑞樹は次第に泣き止んで、うとうととまどろみ始めた。そして、わたしたちは同じベッドで朝まで手をつないで眠った。
十年間だ。十年間、その儀式めいた行為をわたしたちは繰り返してきた。あのひとを失くした痛みをわかちあうように、わたしは瑞樹の髪を梳き、瑞樹はわたしを抱きしめるのだ。
「皐月、ごめん、もう大丈夫」
瑞樹の声に、手を止める。わたしの手が自分から離れるのを確認して瑞樹は振り向き、わたしのからだを抱き寄せた。
「でも朝まで一緒にいてくれる?」
わたしは櫛をサイドテーブルにそっと置き、返事の代わりに瑞樹の背中に手を回した。
瑞樹がいとしい。わたしだけを頼る瑞樹。わたしだけを愛する瑞樹。そして瑞樹だけを頼るわたし。瑞樹だけを愛するわたし。ふたりの世界は完結している。変化なんていらない。わたしたちはずっとこうやってふたりで生きていくのだ。
真夜中過ぎ、わたしたちは手をつなぎ、抱き合って眠りにつく。
瑞樹の肌、瑞樹の匂い、瑞樹の温度が心地よくて、あまりに幸せで、なぜだか不安になって、問いかけてみる。
「ねえ瑞樹、あんたはわたしのもの?」
返事の代わりみたいに抱きしめられて、わたしは満足して、濡れ羽色の髪にそっと指を絡ませた。
いなくなったあのひとは、世界のすべてだった。
こどもにとって母親はそういう存在。よくも、わるくも。