王子様の被虐







殴られて鼻血が出た。鼻腔から流れ、唇に舌先に、触れるなまあたたかいそれは、しょっぱいような変な味。口の中も切ったみたいで、似たような味がじわじわ口腔を支配して。
「なんでわたしに逆らうの?」
涙をぼろぼろ零しながら、細い眉をしかめて、彼女は言う。
綺麗に綺麗にお化粧された顔が、怒りに鋭く染まっていく様を、僕はぼんやりと見つめていた。




最初はそう、彼女の言葉に反論したことから始まった。
「僕は違うと思う」
その言葉を口にした瞬間、左頬を思い切り殴られた。腫れた頬が熱を持っていたことと、切れた唇がひどく痛んだのをよく覚えている。
それからはもう、浮気をした、とか、言うことを聞かない、とか、わたしだけを見ていて、とかそんなよくわからない理由で僕は顔を殴られ、身体を蹴られた。
腫れてしまった顔も体中に散らばった痣も、最初はそれらを見るたびに苦々しく思ったけど、暴力が幾度と繰り返されるうちに、慣れてしまった。
僕が彼女を怒らせるから悪いのだ。彼女が綺麗で我侭で残酷なお姫様だということを理解していて、それでもなお彼女を満足させることができない僕が悪いのだ。そう思うようになった。


初めて殴られた日から一年経って、彼女の行為はエスカレートするばかりだった。
頬を殴る。腹を蹴る。倒れ付した頭を踏みつける。体中を蹴り飛ばす。そして服の袖を捲り上げて火のついた煙草を押し付ける。
それらの残虐行為を、彼女は泣きながら行った。
ぼろぼろぼろぼろ、綺麗な涙でそのうっすら赤くなった頬を濡らしながら、何度も何度も僕を痛めつけた。
「わたしに逆らうなんて許さない」
「あんたはわたしのものでしょう」
「他の誰も見ないで」
「わたしだけを」
「わたしだけを」
泣きながら、僕を痛めつけながら、彼女の唇は途切れることなく睦言を紡いだ。ひどく傲慢で自分勝手で、弱弱しくて、甘い睦言を。




ぼんやりと彼女を見つめるだけの僕に痺れを切らしたのか、彼女は短く舌打ちすると、もう一度、僕を殴った。
反動で床に倒れた僕の背中を踏みつけるようにして蹴る。さらに腹を蹴り上げられて、僕は無理矢理仰向けにされた。
僕を見下ろす彼女の顔が、あまりにうつくしくて、思わず、頬に指先を触れてみたら、ぬるりとつめたい涙の感触がした。
「ごめ、ん、ね」
苦しい呼吸をこらえながら、そう言うと、彼女は僕に抱きついた。ぎゅうぎゅう抱きついて子どものように声をあげて泣いた。


力ずくで、彼女は僕を自分のものにしようとしているのだろう。
殴って、蹴って、痛めつけて、僕の身体に、心に、絶えず傷を刻み付けて、彼女はきっと僕を支配しようとしているのだろう。
僕にわかるのはそれだけ。
彼女はきっと、なにかがもどかしいのに、それで苦しんでいるのに、僕はそれを察してあげることも理解してあげることもできない。僕は彼女が何を怖がっているのかが、わからない。
「わたしを捨てないで、ひとりにしないで」
そう言いながら彼女は泣くけど、僕が彼女を捨てるはずもひとりにするはずもないのだ。
何度も何度もそう訴えたけど、彼女は信じようとしない。いつか僕が自分を捨ててどこかに行ってしまうと、頑なに思い込んでいるのだ。なぜ、自分が辛くなるばかりの想像を繰り広げて、そうなるに違いないと悲観するのか。僕にはわからない。


「あなたがいなくなったら、わたしは息ができない。おねがい、ひとりにしないで」
散々痛めつけた傷だらけの血塗れの身体にしがみついて泣き続ける彼女を、僕はそっと抱きしめた。
踏みつけられた背中が軋むけど、蹴り上げられたおなかが痛むけど。


僕はどうすれば彼女を救えるのだろう。
教えてほしい。きみは僕を支配したいの、それともされたいの?

















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