「ねえわたしを犯してよ」
そう言ったら、彼は悲しそうに首を横に振った。だからわたしは、その左頬を思い切り殴りつけた。
どさっ。床に吹っ飛んだ彼を見下ろしてわたしは聞く。
「なんでわたしに逆らうの?」
紅く流れる鼻血もそのままに、彼は無表情でわたしを見上げた。
ぼろぼろこぼれて止まらない涙がわたしの頬を濡らしていて、その感触がひどく不快だった。
はじめて殴ったのはいつだったっけ。理由はもう忘れてしまった。ひどく些細なきっかけだったのは確かだ。
最初はその理不尽な暴力に、彼は顔をしかめて、だけど何も言わなかった。
だからわたしは、図に乗ったのだ。
彼がわたしの思うとおりの言葉を吐かないとき、彼がわたしではない何かに視線を向けるとき、わたしは彼を殴って、蹴って、それからもっとひどいことをして痛めつけるようになった。
何度も何度も繰り返すうちに、彼は、表情すら変えず、わたしの暴力を受け入れるようになってしまった。
好きだったから、わたしは彼を殴った。
だいすきで、愛していて、もうほんとうにどうしようもないくらい、感情が溢れるから、わたしは彼を殴った。
そんなふうに彼を苦しめたところで、無意味だなんてことはわかっていた。
だけど、どうしようもなかったのだ。日に日に表情をなくしていく彼が怖くて、わたしから離れていく気がして、適当な理由をつけては殴り、蹴り、ありとあらゆる暴力を彼の身体と心に刻みつけた。
悪循環だと頭のすみで冷静な自分が思ったけれど、そう思ったつぎの瞬間にはまた、衝動的に殴っていた。
何も言わずに見上げてくる彼に苛立ちが募って、わたしはもう一度、殴った。
反動で床に倒れた彼の背中を蹴りつける。それだけじゃ飽き足らなくて、うつぶせになった彼のお腹を蹴り上げて、無理矢理わたしのほうを向かせた。
彼は苦しそうに喘ぎながら、それでもどこか冷静な視線でわたしを見た。それが悔しくて悲しくて、思わず目を逸らすと、つぎの瞬間、つめたい指先が頬に触れた。
「ごめ、ん、ね」
わたしの涙をぬぐって、掠れた声で彼はそう呟いた。
わたしはただただ不安で、彼が自分を否定するのが怖くて、彼の言葉、表情、行為、そのすべてを恐れているのだ。
恐れて、焦って、苛々して。まるで手負いの獣みたいに。
あなたを殴っても、蹴っても、ひどい言葉をあびせても、火傷の痕をつけても、苛々はおさまらない。
不安も不満も増していくばかりで、あとからあとから溢れる涙は、いったいどんな意味を持っているんだろう。
ねえあなたにはわかる?
「わたしを捨てないで、ひとりにしないで」
彼のシャツに額を擦り付けて、わたしは泣き喚いた。
「あなたがいなくなったら、わたしは息ができない。おねがい、ひとりにしないで」
わたしのせいで傷だらけの、痣だらけ。シャツは鼻血で赤黒く染まってる、そんな彼にしがみついて、ぎゅうぎゅうしがみついてわたしは泣いた。
弱々しく抱きしめ返してくれた彼は、何を思っているのだろう。
理不尽な暴力を甘んじて受け入れて、痛いのにも耐えて、苦しいのに優しく抱きしめてくれるあなたは、わたしのなかのどうしようもないこの衝動を、正しく理解してくれているのだろうか。
謝ってなんてほしくない。あなたが謝る必要なんてない。でもこれだけは、わかってほしい。
わたしはあなたを支配したいし、あなたに支配されたいの。