武彦はだいたいいつも、帰りが遅い。晩ご飯の片づけをしてるときとか、宿題してるときとか、お風呂に入ってるときとか、下手したらわたしが眠った後ということもある。
いっしょに晩ご飯を食べれるのは、週に一度の休みの日とか、ごくまれに早く帰ってくる日だけだ。予備校の講師というのはよっぽど大変な仕事なのだろう。
わたしはひとりぼっちの晩ご飯を済ませた後、食器を洗って、リビングのすみに置いてあるコート掛けに引っ掛けていた水色のオーバーを羽織り、マンションを出た。
駐輪場から、去年の誕生日に買ってもらったオレンジ色の自転車を引っ張り出してまたがる。つばき公園まではゆっくり漕いで5分だ。マンションと、武彦の予備校とのちょうど真ん中くらいにある。
駐車場を横切って道路に出ると、切った爪の欠片みたいに細い月が見えた。
街頭の明かりでミニーマウスの腕時計を見る。針は7時54分を指していた。今日は水曜日だから、武彦は、少なくともあと2時間は帰ってこない。わたしはペダルを漕ぎ始めた。
つばき公園の入り口には、その名のとおり、大きな椿の木がある。つぼみを膨らませるその赤い花は、もうすぐ開きそうだ。椿のそばに自転車を停めて、わたしはぶらんこまで歩いた。紺色のコートを着た女のひとが乗っているが見えた。ぎい、ぎいと軋みながらゆっくりと前後に揺れている。
「メグ?」
呼びかけてみると、ぴたりと揺れが止まって、
「灯子」
鈴の鳴るような声で名前を呼ばれた。わたしはぶらんこに駆け寄った。
「メグ、ぶらんこになんて乗ってもいいの?」
まだ膨らみなど見えないメグのおなかを見つめる。
「このぐらい平気よ」
メグは笑った。
「ふうん」
メグがそう言うのなら大丈夫だろう。わたしは安心して、メグのとなりのぶらんこに乗った。
「先生は、まだお仕事中?」
ゆらり、ゆらりと遅いスピードで揺れながら、メグは聞いた。ぶらんこからは降りないまでも、ほんの少しだけ前後に揺れるにとどめているメグは、やっぱりおなかの赤ちゃんを気遣っているのだろう。18歳だけど、まだ高校生だけど、メグは立派におかあさんなのだと改めて思う。
「今日はたぶん、10時くらいにならないと帰ってこないよ」
「たいへんね」
メグは呟いた。
「まあでも、いまの時期なら、そのぐらい当たり前か」
「うん、わたしはよく知らないけどね」
ジュケンとか、ダイガクとか、ヨビコウとか、ごくふつうの小学生であるわたしには、まだまだ想像もつかない世界だ。
「そうね、灯子にはまだまだ先の話よね」
メグは不意に揺れるのをやめて、そっと右手でおなかを撫でた。
「わたしにとっても、もう遠い世界の話だけど」
椿の木の下で、メグはわたしを見送ってくれた。
「もうすぐ咲きそうだね」
わたしが言うと、メグはふくらんだつぼみをちらっと見て微笑んだ。
「咲くのが楽しみね」
「この花が咲く頃には、メグのおなかも、もっと大きくなるかな」
まだ、膨らみなどないメグのおなかに触れてみる。メグは何も言わずに、わたしの手のうえから、自分のおなかをそっと押さえた。
家に帰ったら、タイミング悪く玄関の前で武彦と鉢合わせしてしまった。
「灯子」
武彦が、眉をひそめる。
「またこんな夜遅くに出歩いてたのか?」
「すぐ近くだから平気だよ」
「近くでも危ないだろ」
「平気だよ。明るい道通ってるし」
わたしはちゃんと知っている。
武彦は、わたしが夜遅く出歩くのが嫌なんじゃなくて、メグと会うのが嫌なのだ。でもメグのおなかにいる赤ちゃんは、わたしの弟か妹になるんだから、わたしはメグも、赤ちゃんも大切にしたい。武彦にどう思われても。
わたしたちはお互いに黙ったまま、家の中に入った。キッチンとリビングの電気をつけて、コート掛けにオーバーを掛けていたら、後ろから名前を呼ばれた。
振り返ると、ダイニングチェアーに上着を掛けた武彦が、疲れたようにカウンターに寄りかかって、わたしをじっと見ていた。
「メグのおなかに赤ちゃんはいないよ」
「うそつき。武彦は、自分が悪者になりたくないから、そういうこと言うんだ」
「灯子、ほんとうだ。メグのおなかに僕の赤ちゃんはいない。僕のこどもはおまえだけだ」
「ちがうよ!武彦のうそつき!メグがわたしにうそを言うはずないもん」
ほとんど叫ぶように言ったわたしを、武彦が泣きそうな顔で見ていた。
メグがまだ、武彦が講師をしている予備校に通う高校生だった頃、メグはよく家に遊びに来ていた。
「先生に質問したいから来た」と言いながら、メグは、ひとりぼっちで留守番するわたしと遊んだり、いっしょにごはんをつくったり、いっしょにお風呂に入ったりした。
メグはいつも優しくて、そして、武彦のことが、ほんとうに大好きだった。だけど武彦は、そんなメグに冷たかった。
「帰ってくれないか」
そう言って、メグを悲しませた。
メグが「赤ちゃんができた」と言ったのは、2ヶ月前のことだった。
「先生の子どもです」
メグはそう言った。予備校はメグや武彦から何回も事情聴取をして、その結果、メグだけが予備校を辞めることになった。そしてメグは学校にも行かなくなり、わたしの家にも来なくなった。
わたしは、前にもらったメグの携帯番号のメモを引っ張り出して、メグに電話した。
「メグに会いたい。家でひとりぼっちはさびしいよ」
泣きながらそう言ったら、メグは
「わたし、毎晩、つばき公園まで散歩するの」
とだけ言った。それからわたしは毎晩、公園までメグに会いに行くようになった。
「お願いだ灯子、僕を信じてくれ」
そう言って抱き寄せようとした武彦の手を、わたしは振り払った。
早くメグのおなかが膨らめばいいと思った。早く椿の花が咲く季節になって、メグのおなかが大きくなれば、きっと、なにもかもがうまくいく。