泣くエゴイスト







「朝倉、ここに来てますか?」
扉を開けて、かつかつとまっすぐカウンターまで歩いてきた風鈴は開口一番、そう言った。
僕が否定すると、きれいに整えられた眉をひそめて、彼女はすこし考え込んだ。
「なにか飲む?」
聞いてみたけど、首を横に振る。考え込みながら、風鈴は、背の高い椅子に座りにくそうにしながら腰掛け、どさりと紺色の通学カバンを置いて、桜色の携帯を取り出した。
「こんなメールが来たんです」
示された画面に浮かぶのは、『ごめんな』というシンプルな単語。送信者は朝倉。
「このメールが一通来たきり、音信不通なんです。今日で3日」
僕は目の前がまっくらになったような気がした。
朝倉がいなくなった。
僕には一通のメールも一本の電話も寄越さずに、朝倉は姿を消したのだ。








風鈴が朝倉がいなくなったことを告げた日から、2日経ち、僕は自分でも驚くくらい、不安定になっていた。朝倉が目の前にいないだけで、いっそ死んだほうがましなくらい、悲しく、寂しく、むなしく、苦しくなった。
このままでは緩慢に死んでしまう気がして、僕は携帯を手にとった。こんなときに僕が頼れるのは、あのひとだけだった。


「はい」
5回目のコール音が途切れて、朝倉によく似た、先生の声が耳元に響いた。
「…もしもし、新田です」
「新田?珍しいな」
先生の携帯電話の番号は、昔、教わっていたけど、一度もかけたことはなかった。
「あの、そちらに、朝倉いますか?」
「いないけど、どうした?」
「いなくなったんです、あいつ」
みっともなく、声が震えた。
「僕の前から、いなくなったんです」




電話を切ってだいたい1時間後、鍵を閉めなかったドアが開いた。
現れた人影に、一瞬、朝倉の姿が重なって、心臓が跳ねる。そんな自分があまりに無様で、涙と、自嘲が溢れそうになった。
「すみません、先生。仕事帰りなのに」
「いいさ。家まで少し遠回りするだけだから」
この人特有の、穏やかな、模範的な笑みが浮かぶ。
僕はコーヒーを淹れて、カウンターに座った先生の前に置いた。先生は礼を言い、ひとくちだけ飲んだ。
「いつからいなくなったんだ?」
「5日前、ここに来ました。それが最後です」
「連絡は?」
「僕には全く。風鈴…あいつが少しの間つきあっていた女の子に、ごめんって一言だけメールがあったみたいです」
「そうか」
先生が考え込むように俯いた。
「あいつの親父さんに聞いてみたんだけど、どうも、大学の友達の家にいるらしいんだ」
「大学の…」
「だからとりあえず心配はないと思う」
「そうですね」
僕は無理矢理、笑みを浮かべる。大学の友達。僕の全然知らない、僕以外の誰かに、朝倉は頼った。いつも一人で生きていた、僕以外に頼ったり、こころを開くことがなかった朝倉が。
「悔しいか?」
僕は頷いた。
「悔しいし、なんか惨めです」
「まあ…当然、だよな」
「僕、朝倉が最後にここに来た日、本当のことを言おうとしたんです。本当の僕の気持ちを」
先生が微かに目を見開く。
「でも朝倉は言わせてくれなかった。逃げられてしまいました」
「そうか…」
「そもそも、こんな感情を持ってること自体、朝倉には迷惑でしかなかったんです。いまさら僕がカミングアウトしたところで、今まで築いてきた友達としての関係も一瞬で崩れるし、気まずさしか残らない。でも告げようとしてしまった。楽になりたかったから。僕のエゴは、朝倉を追い詰めてしまった」
がたん。
突然、派手な音を立てて先生が立ち上がった。
驚いて立ちすくむ僕を、カウンター越しに抱き寄せる。
「新田、もう、楽になれよ」
体温の高い身体に、息が詰まる。
「たしかに、誰かを好きだと思う感情は、それを告げて楽になりたいと思う感情は、エゴかもしれない。でも必要以上に苦しむことはないんだ。伝えたい感情を持つのは罪じゃない。楽になっていいんだよ、新田。自分を追い詰めるな。先生は、そう思う」
やさしいその言葉は、だけど、僕には酷く辛い。


かつての僕は、この感情を伝えるつもりはなかった。伝えなくても、このままずっといられると思っていた。
高をくくっていたのだ。自分は朝倉のなかに根付いていると思っていた。朝倉が自分との関係を断ち切るはずがないと信じていた。
なんの根拠もないのに。
友情を誓い合った覚えも、愛情を交し合った覚えも、ましてや身体を重ねたことだって、くちびるを重ねたことすらなかったのに。
それなのに、僕は、思い込んでいた。朝倉を失うはずがないと思い込んでいた。




「先生。こんな、死ぬほど悲しくて苦しいのに、手の施しようがないんです」
僕は呟いた。
「どうすれば楽になれるかわかっているのに、それが決して実行できる方法じゃないってのは、なんていうか、絶望的ですね」
至近距離で覗き込んだ虹彩は思いのほか明るい色で、朝倉の眼球はこんなに明るい茶色だっただろうか、と思い、こんなときにまで目の前にいる先生から朝倉を拾い上げようとしている自分の無意識に吐き気がした。
朝倉なんて、取るに足らない男だ。
それなのに僕は朝倉を、死ぬほど思い続けている。愚かだ。あまりにも。
「自分がみじめでみっともなくて恥ずかしくて、情けなくて、悔しい」
僕は俯いて、泣いた。涙の小さな粒がぽたぽた落ちて、先生の服に染みをつくった。
「好きなんです。朝倉が。朝倉が僕の望むような関係になってくれるわけがないってわかってるけど、でも、どうしようもなく、好きなんです。どうしようもないんです」
みっともなく、僕は泣いた。先生はゆっくりと僕の背中を撫でていた。慰めるように。泣いてる赤ん坊をあやすように。










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