生物準備室はしんとしていて、昼間も薄暗い。北側にあるせいだ。夕暮れどき、ただでさえ薄暗い部屋には残り陽すら満足に射さない。
「セックスは、人間が普段ひた隠しにしているものをあらわにしてしまう」
着古した白衣をばさりといすの背にかけながら先生は言った。
「それでもきみは、違う自分をハックツしたい?」
ハックツ、という言葉に僕は顔を上げる。先生が大学では地学を専攻していて、中学生だった朝倉に地層だの化石だのの知識を教えた、ということをそのとき思い出した。それを話してくれたときの朝倉の顔や、声も。
「したいです」
ちいさな声でそう言ったら、先生はうすく笑みを浮かべ、ドアの鍵を閉めた。かちり。静かな室内にわざとらしく響く金属音。
「いやになったら言うんだよ?僕はだいじょうぶだから」
なんて模範的な台詞。
僕が初めて抱かれた男はそういうひとだった。優しくて穏やかで、でも底の知れない怖さをもったひとだった。冷たい人間を装いながら、それでいて単純でまっすぐな朝倉とは、まるで違うタイプのひとだった。
だからこそ、その背徳感に背筋がぞくぞくするほどの快感を、感じたのだろう。
「新田さんて、男とセックスしたことあるんですか?」
からからとストローで氷をかきまぜながら風鈴が言った。その問いを無視して、オレンジジュースのおかわりは、と聞いたら、風鈴は乱暴に首を横に振った。
「わたしの質問に答えて」
苛立ちを滲ませた風鈴の声。そ知らぬ顔で空のグラスに冷えたオレンジジュースを注いで。
「したことあるよ。一度だけ」
オレンジジュースを注ぐ動作の一環みたいに、なんでもないことのようにそう言ってやったら、風鈴のきつい視線が一瞬、僕を貫いた。
「…ふうん、そうなんだ」
白衣を脱ぎ捨てた先生が、窓という窓のカーテンをきっちり閉めていくのを僕はぼんやりと見つめていた。こげ茶色の革張りソファは古くてすこし固いけど、とても居心地がいい。このソファを朝倉は気に入っていた。ここでこれから僕はあの男とセックスするのか。そう思うと、なんだかすべてが絵空事のような気がした。
「なに考えてる?」
いつのまにか近くまで来ていた男。銀縁の眼鏡の奥には、落ち着き払った瞳。歳相応にハリを失ったその皮膚は大人を感じさせ、答えない僕の頭をくしゃくしゃと撫でる手は、あたたかい。見るからに体温が低そうだったから、その手のあたたかさがすこし意外だった。
「やめとくか?」
僕は首を横に振った。実際のところ、僕は先生の体温に、匂いに、大人のからだに、発情していたから。
「きもちよかった?」
「いや、すごく痛かったし、くるしかった」
「ふうん。わたしと一緒だ」
風鈴がにやりと笑う。かぼそい指先が、ストローの入っていた細長い紙の袋をくしゃくしゃと丸めている。その指で朝倉に触れたのか。その指に朝倉が触れたのか。すこしだけ伸ばした爪がうすいピンク色に塗られている。
なんて模範的な少女の指先。
「わたしね、朝倉がはじめてだった」
「へえ」
「新田さんは?その相手は誰だったの?」
朝倉ではありえないことを知っている彼女の、強気なくちびるに浮かぶは、勝者の微笑み。余裕ぶったしぐさで丸めたストロー袋をつつきながら、僕の表情を窺うように見上げてくる。その瞳が朝倉だけを映す瞬間を想像しそうになって、慌てて振り払う。
「…先生だった。生物の」
「先生?まじで」
すこしだけ目を見開く風鈴。
「うん、朝倉の従兄だった」
勝者の微笑みが驚きの無表情に変わるのを見届けて僕は笑った。
目が合う。一瞬、息がとまる。欲情した男の顔が近づいてくる。
「あさくら、せんせい」
呼びかけたらソファに押し倒された。首筋におしつけられる唇が、吐く息がなまあたたかい。絡みつく体温。シャツの中に入ってくる手がわきばらを、背中を撫でていく。じわじわと這い上がる快楽に僕の息も上がる。
「新田…」
先生の行為は、くちづけは、愛撫は、ひどくやさしく気遣いに満ちていた。でもその表情は、瞳の色は、色欲に彩られた空虚だった。その空虚さが心地よかった。先生が僕になにも求めてなくて、僕はそれでちょうどよかった。オス同士の、発情だけの、野生じみたいびつなセックス。自然の摂理に反しているようで、それでいてなんだか、空っぽで歪んだ僕には正しい行為だったような気がする。
オレンジジュースをかきまぜることをやめた風鈴の、かすかに震えるくちびるが、睨んでくる瞳が、あんまりきれいだったから、なんだか急に自分が薄汚れたけだものになった気がした。(まあ実際に僕は薄汚れたけだものなのだけど)
「どうして、朝倉の従兄と?」
「声がすこしだけ似てたんだ。あと、指のかたちも」
「それだけ?」
風鈴が、妙に歪んだ笑みを浮かべる。
「たったそれだけの要素で、そのひとを朝倉のかわりにしたの?」
僕は答えなかった。風鈴はそれ以上なにも言わずにオレンジジュースをひとくち飲んだ。
「そんなにあいつがすきか?」
射精の直前、いちばん理性が飛んでいる瞬間に先生は聞いた。そんなときにそんなこと聞かれて、答えられるはずがなくて、その言葉を合図にしたみたいに僕はイッた。呼吸を整える僕に先生は笑いかけた。
「おまえはきっと、ずっと何も言わずにあいつのそばにいるんだろうな。そんな気がするよ」
そういえば、あのときも僕は答えなかった。
外に視線を向けると、あのときみたいなオレンジ色の空気があたりを覆っていた。
もうすぐ講義を終えた朝倉が姿をみせるだろう。そして風鈴とどこかにいくのだろう。それでも僕はきっと、ずっとあいつのそばにいるのだろう。
そんな気がするよ、先生の声が聞こえた気がした。
新田の過失。
なんにも得られなくたって、いい。これはこれで。