幸福







乱雑な音と共に、鍵をかけていなかった店のドアが開いた。
息を切らしながら立つ少女の姿を見て、ぱっと先生が身体を離した。生まれた隙間をすこしだけ寂しく思う。
でもそんな感傷は、すぐに破られた。
「おとうさん…」
風鈴の呟いた言葉によって。


しん、と静まり返った店内で、僕たちは立ち尽くした。
驚愕の表情を浮かべたまま微動だにしない風鈴と、呆然と立ちすくむ先生。そしていまだ事態をつかみきれない僕。
「ひさしぶり。5年ぶり、だっけ」
最初に口を開いたのは風鈴だった。
「やっぱり、新田さんが言ってたの、おとうさんだったんだね。朝倉の手、おとうさんの手と似てたもん。その、指のかたちがさ」
先生は口を開きかけ、だけど、何も言わず、黙り込んだ。
「朝倉を見ると、なんだか懐かしい感じがした。朝倉に名前を呼ばれるたび、おとうさんのことを思い出したよ」
風鈴はひっそりと笑った。まっすぐな眼は、涙で濡れていた。
「さっき、新田が、かざり…て言いかけただろう」
先生がぽつりと呟く。
「まさかと思ったんだ」


「…新田さん。わたし、お父さんと話がしたい」
風鈴の要望を、僕は了承して立ち上がった。
「1時間経ったら、戻るよ」
「ありがとう」
黒いエプロンを外し、簡単に畳んでカウンターの上に置き、先生の横をすり抜け、風鈴の右を横切り、ドアを開けた。頬に触れた外気は少し冷たかったけれど、裏にジャケットを取りにいく気にはなれなかった。
邪魔するわけにはいかない。この再会を、風鈴はずっと願っていたのだろうから。
羨望に、胸が痛む。
「会いたかった。ずっと、ずっと、会いたかった」
ドアを閉める直前、中から聞こえた風鈴の言葉が、僕の心情を代弁した。




僕は、駅の方向へと足を向けた。寒さのせいで、自然と早足になる。道沿いには暖房の効いたコンビニが数軒あったが、構わず通り過ぎた。
とにかく一人でいたかった。今、朝倉以外の人間は必要ない。
すこし歩いたところに、朝倉と風鈴がいつも待ち合わせていた歩道橋がある。そこに行こうと思った。
いつもそこでにせものの星空を見ていた、と風鈴は話した。そうしたら朝倉に出会った、と。
馬鹿馬鹿しいと思いながら、僕はひたすら歩いた。


夜も更け、冷たい風が吹き抜ける歩道橋の上は、誰もいなかった。
冷え切った手すりに身を預け、連なる光の道を見下ろす。赤、黄、白、青。きらきらと溢れる、人工的な星空。地上に広がるにせものの星空。
滲む光をぼんやり見つめながら、僕は朝倉のことを考えた。
甘く掠れる声とか、最近伸び気味だった癖のある髪の毛とか、荒れた手とか、年がら年中かさついてる頬とか、つめたく光る眼とか、高校のとき、いつも並んで昼ごはんを食べた非常階段の冷たい床とか、教室のこもった空気とか、喫茶店のカウンターの木目とか、ぶくぶく泡だつサイダーとか。朝倉にまつわる全てのものを、いとしく思い出した。
ひとつひとつ思い出すたびに、つきりと胸に痛みが走ったけど、思い出さずにはいられなかった。


かん、かん、と響く音に気付いて、僕は顔をあげた。徐々に近づいてくるそれは、まぎれもなく足音だった。しかも、さっきまで自分が求めてやまなかった足音。
僕は、ちいさく震えた。懐かしさ、喜び、不安、緊張、さまざまな感情がぐるぐると混ざり合い、やがてひとつに集束していく。
「おかえり」
そう呼びかけたら、足音がぴたりと止まった。
「風鈴じゃなくて、ごめんな」
投げ掛けた視線の先、朝倉が掠れた声で笑った。


もうすぐ、僕は、この声も、表情も、言葉も、失う。4年間ずっとそばにいた、この存在を失ってしまう。
だけど朝倉が帰ってきたそのひととき、僕はたしかに、幸福だった。










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