ドアベルの音が鳴って少女が入ってきたとき、僕はそれが誰だか一瞬でわかってしまった。店内をきょろきょろと眺めたのち、ぎこちない足取りでカウンターまでやってきて、
「…新田さんですか?」
そう聞かれて、僕は、はい、としか言えなかった。
もうすぐ夕暮れを迎えるであろう外は、急に振り出した雨のせいで薄暗く、少女の髪はしっとりと濡れていた。
「ほんとは連れてきてもらう予定だったんです」
ヒールの取れてしまった華奢なミュールをひざの上に抱えて、風鈴はたどたどしく説明した。
「駅で待ち合わせてたけど、バイトが終わらなくて遅れるってメールが入って、待ってたら雨が降ってきて」
髪や服の水気を拭って、風鈴はピンク色のタオルハンカチをバッグにしまった。タオルを持ってくると申し出たけどハンカチでじゅうぶんだからと風鈴は断ったのだ。
「だいたいの位置は聞いて知ってたから、ひとりで来れると思って…」
「その途中で靴、壊れちゃったんだ?」
「…はい」
「足も、くじいた?さっき右足をひきずってたけど、痛い?」
「すこしだけ」
僕はつめたいおしぼりを取り出してパッケージを破った。カウンターの外に出て椅子に座る風鈴の足首を包んでやる。
「とりあえず、こうやって冷やしとくといいよ」
「…すみません」
幼い、頼りない声で風鈴が言った。僕はその泣きそうな顔を見上げて無言で笑いかけた。風鈴が朝倉の何であっても、こんな少女をこのまま放っておけるほど僕はこどもじゃない。
風鈴の話をめぐってぎくしゃくした僕と朝倉は、しかし翌日にはけろっと元通りになっていた。僕たちはいつもそうだ。諍いがあっても翌日には暗黙の了解で「なかったこと」にする。表面上だけ取り繕いあう関係はけっして健康的ではないだろうけど、僕たちはそれ以外でお互いに歩み寄る方法を知らないのだ。
謝罪はめったにしない。謝るならばもっとそれ以前に、詫びなければならないことを抱えていることは自分たちがいちばんよく知っているから。
店の奥にある埃をかぶった救急箱を探ると、幸い、湿布が入っていた。一枚手に取り、所在なげにしている風鈴のもとへ戻る。
「湿布があったから」
手渡すと風鈴は戸惑ったように僕を見上げた。
「湿布の一枚くらい気にしなくていいよ。自分で貼れる?」
風鈴は頷いた。
「ありがとうございます」
お礼も言えないような馬鹿な女の子だったらよかったのに、と少しだけ思った。でもそんな女の子ならば朝倉が関わるわけがない。あいつはそう贅沢言える身分でもないくせに、結構理想が高いのだ。
僕がカウンターの向こうに戻るのを見計らって、風鈴はパッケージを破り、湿布を貼りはじめた。
「ご注文は?」
風鈴が作業を終えるのを待って声をかけた。うつむいていた風鈴はゆっくりと顔を上げ、すこしの逡巡ののち、オレンジジュース、とちいさな声で言った。
僕はグラスに氷をいくつか放り込み、冷蔵庫から100パーセントのオレンジジュースを取り出してこぽこぽと注いだ。背を向けてしまったので風鈴の様子は見えない。でもじっと自分を見ているであろうことは感じとれた。
年頃の少女は愚かなまでに、敏感だ。
「はい、お待たせしました」
オレンジジュースをなみなみと注いだグラスをカウンターテーブルに置き、ついでにちいさく丸めていた湿布のパッケージを回収してゴミ箱に放り込む。
そこまでするとやることがなくなって、僕は途方にくれた。
客は初老の男の人がテーブル席にひとりだけ。コーヒーをすすりながら読書にいそしんでいる彼がおかわりを要求しないかぎり、僕はどうあがいても目の前の少女と向かい合っていなければならない。さっきまで普通に会話できていたのに、急に何を話せばいいのかわからなくなった。
朝倉はまだ来ない。外の雨もまだやまない。穏やかに、静かに、でも降り続けるそれは世界を確実に濡らしていく。
すこしの沈黙が流れて、口火を切ったのは風鈴だった。
「新田さんはわたしのことがきらいですか?」
年頃の少女は愚かなまでに、純粋だ。
「…どうして」
「なんだか、そんな気がする」
風鈴の表情は見えない。じっとオレンジジュースの水面を見つめている。
「そんなはずないよ」
僕は笑った。困ったような苦笑。自分でも白々しいと思った。風鈴はそれ以上、なにも言わずにオレンジジュースをひとくち飲んだ。朝倉が入ってきたのは、そのときだった。
ドアベルの音に、僕と風鈴が同時にそちらを向く。朝倉はコンビニ傘の水気を払ってたたみ、傘立てにつっこんだ。
「朝倉」
僕が呼びかけると、朝倉は静かな目で僕を一瞥し、無言のまま風鈴のとなりに座った。
「…なにか飲む?」
「いや、すぐ出る。悪い…」
「わたし、靴がこわれて怪我をしたの」
朝倉の言葉をさえぎるように、風鈴がぽつりと言った。僕はふたりに背を向けて、グラスや食器の整理をはじめた。
「ここまでひとりで足をひきずって来た。新田さんが湿布をくれた」
「ごめん」
朝倉が、簡単に謝った。不思議とそんなにショックではなかった。
「もういいよ」
そういった風鈴は涙声だった。
「靴、壊れちゃって、もう直せない」
そうやって静かな声で激しい感情を訴える彼女は、まさしく女というイキモノそのものだった。メスは自分のすべてをつかってオスをひきつける。まるで花のように。
「新しい靴、買ってやる。そんな華奢なのじゃなくて、もっと丈夫なやつ」
ああ、なんて愛にあふれた言葉だろう。
朝倉がどんな顔でそんなことを言うのかとても知りたかったけど、振り向くことはできなかった。これ以上、みじめになりたくはないから。朝倉は僕のみじめさを雪いではくれない。僕のかなしみを慰めてはくれない。
最後のグラスを棚に閉まって、僕は聞こえないようにため息をついた。そしたらなんだか妙に可笑しくなってきて、口を手で覆って、すこしだけ、自分を嘲笑った。
つよがる男と、弱さを利用する少女。