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にせものの星空







窓の外は暗闇。ときおり照明の白いひかりがするり、するりと流れていく。夜11時。電車のなかは静まり返っている。疲労の色を濃く浮かべた乗客たちは眠る者か、本を読みふける者か、ぼんやりと空中をみつめる者のどれかにカテゴライズされる。まるで死者のようだ。わたしたちはお互いに他人同士、疲れた魂をさらけだしてこの空間を共有している。


ゆっくりときしむように停車した電車から、降車する人々にまぎれてするりと抜け出る。ひんやりと冷たい夜の空気が、なまぬるい人間の呼気と裏腹に、はっとするほど澄んでいた。改札口を出てすぐ、歩道橋を見上げると、ひょろりと背の高い人影を見つけた。知らず緩む頬。
かん、かんと音を立てて階段をのぼれば、人影はゆっくりと振り向く。少し癖のある髪が風にふわりと揺れた。黒縁眼鏡のレンズの向こうで、切れ長の瞳が固い光をたたえている。
「ただいま」
「おかえり」
だけど、かさついた唇からこぼれた声は、思いのほか甘く優しかった。


歩道橋の上から光にあふれる道路を見下ろすのは、わたしの日課みたいなものだった。赤、白、黄、青、さまざまな色があふれるそこは、まるでもうひとつの星空のようだ。
にせものの星空。この街はほんものの星が見えない。


柵に寄りかかってじっと下を見ていると、ときどき自殺志願者に間違われる。緊張を隠せない固い声で「お嬢ちゃん、なにしてるの」と聞かれるたびにうんざりする。道路を星空になぞらえて見てるなんてほんとうのことを言っても、みんなにわかには信じてくれないから。
でも、朝倉は違った。
「なにしてんだ?そんなとこで」
ぶっきらぼうな声でそう聞き、当たり前のようにわたしの隣に立って、同じように道路を見下ろす大学生風の男。不審者以外の何者でもない。
「なにが見えるんだ?」
だけど、近くで見た男の、思いがけず鋭利な横顔と、真剣な色合いを帯びて問いかけてくる声にわたしは不本意ながら気おされてしまった。
「星」
「ほし?」
簡潔なわたしの答えに、男は眉をひそめ、空を見上げた。
「星なんかぜんぜんみえねー」
「違う、地上の星」
「なかじまみゆき?」
わたしはため息を吐いた。
「車のライトとか、ビルの光とか、きらきらしてて、にせものの星空みたいで、すきなの」
「おまえは、にせものがすきなのか?」
「ほんものが見えないんだから仕方ないじゃん」
むっとしてそう言ってやると、男はますます眉をひそめ、柵にもたれて腕を組んだ。
「なあ、おまえ、名前は?」
初対面なのに傍若無人な態度にますますむっとする。
「普通そっちが先でしょ」
「俺は朝倉」
次はおまえ、とばかりにあごをしゃくって促してくる。天上天下唯我独尊なんて言葉が脳裏をかすめた。
「かざり」
「カザリ?」
「うん。風鈴、て書いて、かざりと読むの」
生き別れた父親がうつくしい名前をつけようと凝って考えた名前。はじめて聞いたひとは大概目を丸くして、次に、きれいね、とか、かっこいい、とか言ってくる。
「変な名前」
だからこんな感想を述べられたのは初めてで。思わず睨みつけると、傍若無人天上天下唯我独尊男は愉快そうにくちびるを歪めた。
「けちつけるなら聞かないでくれる?」
「いやいや変な名前かどうかは聞いてみないとわかんないだろ」
「むかつく男」
「初対面の人間にむかってその言い草はないだろう不良中学生」
「わたし高2ですけど」
「うそ、みえねー」
ガキっぽいなぁおまえ、とそう言って朝倉はくしゃりと笑った。怒ってるのが馬鹿らしくなってしまうくらいの笑顔。つくづく傍若無人な男。
「うるさい」
だからしかたなく、わたしも笑ったのだった。


そうやってはじめて会ったのが5月の第2木曜日で、以来、朝倉は次の週も、その次の週も歩道橋のうえでにせものの星空を見下ろすわたしに声をかけた。次第にわたしたちはどちらからともなく、毎週木曜、その場所で待ち合わせるようになった。朝倉のバイト終わりの時間とわたしが帰る時間が都合よく重なる日が木曜だったから。
たった30分ほどの逢瀬だったけれど、その時間だけは、朝倉はわたしのものだった。鋭利な横顔も温度のない瞳も、そのわりに思いがけず柔らかな声も、傍若無人な態度もぜんぶ。
わたしは朝倉がすきだった。恋愛感情なのかどうか、それはわからなかったけど。
だってどれが恋愛感情でどれがそうでないのかわたしにはわからない。ほんものの愛なんてわたしはよく知らない。おそらく生き別れた父親がくれた名前だけが、わたしにとってのほんものの愛。

「おまえ、こんな遅くまで外にいて親は心配しないのか?」
何度目かの逢瀬で朝倉がした質問。悪気の欠片もない、ただただ純粋にぶつけられた疑問に、わたしは逡巡した。いったいどう答えればいい?どう答えれば朝倉の気をひける?そんなことを考えた。
「いないよ。心配してくれるような親なんていない。好き勝手に生きてるのよ、お互いに」
考えたすえ、つむいだ言葉。事実をありのままに、だけど端的に、そしてわたしが孤独であることを知ってもらえるように。
「ふうん」
朝倉は低く呟くと黙り込んでしまって、わたしは落胆した。
いつもそう。いつも、わたしは、他人の気をひくことに失敗する。そのくりかえしだ。


「かざり」
うつむいたわたしを朝倉が呼んだ。
朝倉がわたしのなまえを呼ぶことは滅多にない。だけど朝倉がわたしの名前を発音するとき、ちりんと鳴る風鈴の音が聞こえる気がする。生き別れた父がわたしを呼ぶときもそうだった。幻の風鈴の音が聞こえて、わたしはいっしゅんだけ、自分がなにかうつくしいものになった気がした。  だからわたしは朝倉にいっしょにいてほしいのかもしれない。わたしがほんとうにもとめてるのは、生き別れた父なのかもしれない。わからないけど。
顔をあげたわたしのくちびるに、かわいてかさついた、だけどやわらかいものがいっしゅんだけ触れて、離れた。それが朝倉のくちびるだと気づいたのは至近距離から見た温度のない瞳に自分だけが映っていたから。その瞬間、わたしはやっぱり、自分がなにかうつくしいものになった気がした。
朝倉の瞳に映り、朝倉の脳に伝わっていく、にせものの、イメージの自分が。














ほんとうは「ほんもの」が欲しい女の子と、ほんものが得られないならにせものでもいっかと思ってる男。
惹かれあってるようで食い違ってる2人。











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