いつもの店で、いつもの席に座って、いつものようにサイダーを飲んでいたら、ジーンズのポケットの中で携帯が振動した。
『会いたい。歩道橋で待ってる』
ひとことだけの、メール。確認だけして携帯を閉じた。
駅近くの、喫茶店。ほどほどに古びていて客の少ないその店には、高校のときから通っている。あのころは、髭面の40代前半くらいのおっさんがひとりで店を営んでいたけど、今は、同じく高校のときからここを居場所にしていた新田が、バイト店員として働いている。
おっさんは、新田がよく働くのをいいことに、パチンコだかパチスロだかに通い詰めているらしく、最近はあまり店で見かけない。
いくら小さな店とは言え、駅からも近く、常連客だってそれなりにいるこの店を、未成年のバイト店員に仕切らせていいものかと常々疑問に感じているが、当のバイト店員は、そんなおっさんにはお構いなしに、あくまでマイペースに、ひとりで店を切り盛りしている。
現に今も新田は、俺の目の前で、ひとり黙々と砂糖入れに白い角砂糖を補充していた。そのてきぱき動く器用そうな指先を、サイダーをぶくぶくさせながら眺める。俺とは違う、長い指、大きな手。中学までピアノを習わされていたと昔聞いたけど、確かに、楽器の似合う手だ。
「朝倉、おまえな、ぶくぶくぶくぶくするなって、何回言えばやめるんだよ」
丁寧な作業をする手とは裏腹に、苛立った刺々しい声が降ってきた。
「最近は言われてない」
新田はこの癖を嫌がる。本人が言うには、見ていて苛々するらしい。その気持ちはわからなくもないが、このぶくぶくと泡立つ感覚がなんとも言えず心地よくて、やめようという気にはならない。
「変なとこ、ガキっぽいよな。おまえ」
補充し終わった砂糖入れが、俺の前に置かれる。
「俺はガキだよ。自分でわかってる」
見上げた先で、新田が苦笑していた。
「最近、あの子がひとりで来てるよ」
後ろからかけられた声に、顔だけを向ける。テーブル席に、砂糖入れを戻している新田の背中が見えた。俺と違ってまっすぐで、艶のある髪が、動くたびに、照明の灯りを反射して光った。
「あの子って、風鈴?」
「ああ」
砂糖入れを全てのテーブル席に置くと、新田はカウンターに戻ってきて食器を洗い始めた。こまごまと本当によく働くヤツだ。この店がこいつのものになる日も近いかもしれない。
「風鈴とどんな話すんの?」
「朝倉には言えないな」
「なんでだよ」
見上げたら、新田がこらえきれないというふうに噴出した。
「おまえの口から、そんな彼氏らしい言葉が聞けるなんて思わなかった」
笑う新田が新鮮で。なぜ新鮮なのか考えたら、それは新田が俺の前で声を立てて笑うことがないからで。
我ながら、つくづく、ひどい友人だ。
わかってる。俺はガキで、たぶん新田は俺よりも少しだけ大人だ。
ガキは欲しいものに遠慮しない。我侭だとわかっていながら、意地でも手放そうとはしない。それで誰かを困らせることになっても、傷つけることになっても、自分の欲求を止められない。
「あれ、雨だ」
ひとしきり笑った新田が、笑みの抜け切らない、妙にまぬけな顔のまま、言った。
「にわか雨が降るかもしれないなんて、天気予報で言ってたっけ?」
あっという間につよくなっていく雨。
風鈴はきっと傘を持ってない。ずぶぬれになっても、その場で辛抱づよく俺を待ち続けるだろう。確信めいた予感に緩みそうになるくちびるを隠して、俺はやっと、居心地のいい椅子を降りた。
喫茶店の向かいのコンビニで透明のビニール傘を買った。
ぱつ、ぱつ、ぱつとビニールを打つ雫の音を聞きながら歩いてると、次々と風鈴の顔を思い出した。しずかな瞳の風鈴、微笑む風鈴、甘い声で啼く風鈴、しめっぽくなった、なまぬるい風鈴。
俺の知ってる風鈴は、それだけだ。他には何も知らない。
歩道橋の真ん中で、思ったとおり傘もささず、風鈴は待っていた。視線の先には濡れて滲む、にせものの星空。
「…遅かったね」
俺を見て微笑み、濡れた前髪をかきわける。ぽたりと雫が垂れて、涙を流したように見えた。思わずその手を掴む。ひんやりと濡れた感触。
「こんな冷えるまで、なんで待ってんだよ」
「会いたかったから」
しずかな声で、風鈴は言った。
自分が聞いたくせに、突然、返す言葉が何も浮かばなくなって、しかたなく、透明のビニール傘の中に、乱暴に風鈴を引き入れた。
傘を傾ける仕草も、風鈴の腕をつかんで引き寄せる仕草も、我ながら、馬鹿みたいにぎこちなくて、強くなっていく雨脚だけが、俺の醜悪さを責め立てていた。