最後のサイダー







いつもより丁寧に、床にモップをかけていたら、背中に視線を感じた。
手をとめて振り向くと、すぐそばに風鈴が立っていて、
「新田さん、どうしたの?」
そう聞いた。女の子は勘が鋭い。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「なんとなく、新田さんの様子がいつもと違うから」
そして、確信のないことでもすぐ言葉に出す。
「店やめるんだ。今日かぎりで」
「…じゃあ、明日からどうするの?」
「とりあえず、日本を出ようかなって」
「そうなんだ…さびしくなるね」
嘘偽りのない、声だった。
「先生とは、話できたの?」
「うん。今度の週末に会いに行くの。おかあさんには内緒だけど」
「そうか…ほんとによかった」
「なんか、わたし一人で空回ってややこしくなっちゃったけど、またひとつずつやり直していけたらいいな、て。もちろん、おかあさんや今のお父さんのこともあるし、とりあえずだけど」
「いいと思うよ。時間はたっぷりあるんだから」
僕はモップをしまって、イスを勧めた。カウンターのいつもの席を。
「新田さんは話できた?朝倉と」
「うん。答えはもらえなかったけど、満足したよ。とりあえずはね」
「いいの?」
「いいんだ。とりあえずは」
「ああ。とりあえず、か」
風鈴がにやっと笑った。
「とりあえず、だよ」
僕もにやりと笑って、冷蔵庫からサイダーの瓶を取り出し、グラスを2つ、カウンターに並べた。
乾杯をしようと思った。
この店を去る僕と、少し大人になった風鈴のために。


この店での最後の一杯は、サイダーにすると決めていた。
2つ並べた大きいグラスに注いで、赤色のストローをさす。ひとつを差し出すと、風鈴は嬉しそうに微笑んだ。
「新田さんもこっち来て座りなよ」
「いや、僕はこっちでいいよ。話があるんだ」
僕は自分のサイダーを手に取り、バックルームから丸イスを引っ張ってきて、カウンターを挟んで、向かい合わせに座った。
「話?」
「ひとつだけ、きみに謝らないといけないことがあって。僕、嘘をついてた」
「うそ?」
風鈴が首を傾げる。
「セックス、したことないんだ」
唐突な僕の言葉に、見開かれる大きな眼。 「…じゃあ、おとうさんとは?」
「途中まで。虚しくなって、やめた」
風鈴は、ふうん、と呟いて、ストローでサイダーをかきまわした。からからと氷が音を立てて揺れ、サイダーがちいさく泡立つ。
「誰かの代わりに他の人とセックスしたって、やっぱり虚しいよ。寂しさが増すだけだ」
「わたしは、虚しくならなかったよ。朝倉としてるとき」
風鈴はうつむいたまま、ぽつりと呟いた。からからと乱暴にかきまわす手は止まらない。
「それは、たぶん、朝倉は代わりじゃなかったってことだよ」
僕の言葉にしばらく返事はなかった。からからから。涼しげな音を立てて、いまだ風鈴の手の中でサイダーは翻弄されている。
僕は、ストローに口をつけ、ぶくぶくぶく、と音をたてた。
からからから。ぶくぶくぶく。2人の立てる音が重なったとき、風鈴が言葉を発した。
「どういうこと?」
顔を上げた風鈴の眼からは、涙がこぼれていた。
「代わりじゃなかったってどういうこと?」
僕は何も言わなかった。
くしゃりと顔をゆがめた風鈴はますます激しく泣き、僕はそっと、つめたいおしぼりを差し出した。
「そんなこと言われたって、わたし、もう終わりにしちゃったよ」
おしぼりに顔を埋めながら呟いた言葉は、くぐもっていた。
「ごめんね。僕、酷いヤツだから、少しだけいい気分だ」
そう言ってやったら、風鈴は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、 「ほんと、ひどいやつだね」 と言って微笑んだ。


いつも、いつも。人は自らを削って、恋をする。
いくつもの埋められない空虚に喘ぎながら、それでも人は、誰かを求める。唯一無二の、誰かを。
それはたぶん、サイダーをぶくぶくするのと一緒くらい空しくて。
だけどやめられないのだ。






(おわり)










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