埋めるもの







店を閉めるために外に出たとき、雨は既に止んでいた。
路上に置いた看板を濡れた感触に眉を顰めながら片付け、ドアにかかる「OPEN」の札を裏返し、「CLOSE」にする。
久しく聞かなかった声に名前を呼ばれたのは、そのときだった。
「新田?」
ぎくりと手放してしまった札が、がん、とドアにぶつかり鈍い音を立てる。
「…朝倉先生、」
こんなところで出くわすとは思わなかった、男。
「久しぶりだな」
男は、消え入りそうに、微かな笑みを浮かべた。
「お久しぶり、です」
後にも先にも一人だけ、この男だけが、僕のなかの空虚を知っている。


いつもの席でサイダーをぶくぶくさせながら朝倉は、一度だけ携帯を見た。ちらりと画面を確認してすぐに閉じたのはきっと、風鈴からのメールだったから。
朝倉という男は、相手が自分の手のうちにいると知った途端、その相手に対して、我侭になる。
普段は、冷たそうな外見とは裏腹に、周囲の人間には当たり障りのない態度で愛想良く振舞うくせに、僕の前では不満なら不満を、不機嫌なら不機嫌さを、露にする。手のひらを返すようなその態度に憤慨したのは最初だけで、それが自分に対して気を許している証拠とわかってからは、朝倉の無視、我侭、気まぐれをいとしく思うようになった。
我ながら気色悪い。どうしてそこまで入れあげてしまってるんだと、自嘲することもしばしば。それでも、あんなふうに朝倉が風鈴に気を許していることを目の当たりにしてしまうと、途端に、胸の奥の空虚は泣くのだ。


閉店後の店内に誘うと、先生は、朝倉がいつも座っている席に腰を下ろした。思わず静止した僕の視線に気付いたのか、「どうかしたか?」と聞かれ、慌てて首を振る。
「コーヒーで、いいですか?」
「ああ、ありがとう」
半年ほど見なかったその微笑が、あっという間に僕の時間を戻す。あの教室も、非常階段も、生物準備室も、このごろでは遠い昔のように感じていたのに、古いソファの感触までもが甦ってきて。振り払うように背を向ける。
「元気そうだね」
フィルターを敷き、コーヒー豆の粉を入れて、お湯を注ぐ。こげ茶色の粉がふくらむのを待って、二度、三度と、お湯を注した。ここで働き始めたとき、最初に教わったやり方だ。
「…朝倉に聞いたんですか?僕がここで働いてるって」
カップとソーサーを用意しながら聞くと、先生は、ああ、と頷いた。
「このまえあいつに会ったときに、新田はどうしてるんだ、て聞いたら、この店で働いてるって。ここ、おまえたちの溜まり場だったんだろ?」
「まあ。朝倉はいまだに溜まり場にしてますけど。はい、どうぞ」
できあがったコーヒーをカップに注ぎ、ティースプーンを添えて出す。空いた手で、さっき片付けたばかりの砂糖入れとミルク入れも差し出す。
「ありがとう。…なんだか、あのときと逆だな」
先生はにこりと模範的な笑みを浮かべた。あのときと同じかおだった。


マグカップを両手にもって振り返った笑顔。苦くて濃い、コーヒーの香り。一歩足を進めるごとにひらりと揺れた、無造作に羽織った白いシャツ。汗ばんで冷えていく、自分の身体。


一瞬にして甦る記憶。
「ごめん」
先生はちいさな声で謝り、出されたコーヒーをブラックのまま啜った。
「…いえ」
結局、空虚を埋めるものなんて、どこにもないのだ。好きでもなんでもない相手との、ただ欲望をまぎらわすための行為から僕が学んだのは、それだけだった。
「先生は悪くない。僕が馬鹿だったんです」
先生が顔を上げる。
「僕は、確認したかった。僕の中の空虚は、本当に埋められないものなのか。もしかしたら、他の何かで紛らわせるものなんじゃないか、て。…結果は惨敗だったんですけどね」
僕は自分のためのコーヒーを淹れ、先生の隣に座った。
「昔も今も、僕の空虚はあいつのために存在し、あいつの存在でしか埋められない。馬鹿馬鹿しいって、自分でもわかってるけど」
自嘲的に笑うと、先生の視線が緩んだ。
「そんなことないさ」
薄暗い店内は静かで、どこか生物準備室に似ていた。コーヒーの香りだけが、ここはあの部屋じゃないことを教える。
「たぶん、ほんとうは、こんな空しいことは終わりにしたいんです。だけど見つからない。朝倉の代わりに、その穴を埋めるものが。僕には思い浮かばない」


あのとき、雨が降り出してすぐ、朝倉は店を出て行った。ずぶ濡れで自分を待っているであろう、女の子を迎えに行くために。
風鈴を羨ましいなんて思わない。朝倉は、僕の居る場所を、自分の居場所に定めているから。
この思考がたとえ強がりでも、そう思うしか僕には打つ手がない。まっくらな空虚を、これ以上広げないために。
「そうだね。穴は、何かが足りないから、空いてしまう。穴を埋めるものは、穴を空けたものでしかありえない」
しずかな声で先生は言った。凪いだ瞳の奥には、抱き合ったあのときと同じ、空虚があった。












みんな、埋まらぬ空虚を抱えている










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