それはうつくしい錯覚







「ひとを好きになったかもしれない」
あの馬鹿の朝倉が、いつものようにサイダーをぶくぶくやりながら、息継ぎの合間にぽつりと呟いた言葉。それを聞き流すことができない程度には僕も馬鹿だった。
「誰を?」
動揺がコーヒーを淹れる手元を狂わせて、すこしだけ茶色い液体が飛び散った。それに気づかない程度には朝倉も動揺していて、それがさらに僕を動揺させて。(なんだこの動揺の連鎖反応)
「かざり」
「は?」
「かざり、ていう名前なんだよ。高2だって」
「飾り…」
虚飾、表面上のうつくしさ。そんな意味の名前を持つ少女。
「風鈴、て字を書くらしい」
「ふうん」
「きれいな名前だよな」
そんな優しい瞳の朝倉なんて見たくなかった。鈍く光る、不思議と温度のない瞳しか見たことのない僕が朝倉にとっていかにちっぽけな存在か思い知らされるから。
「とかいって、俺、変な名前、つって怒らせたんだけど」
「…なんだそれ。失礼にもほどがあるだろ」
こどもみたいに愉しそうに笑う、そのかおに苛立つ。そんな自分自身に苛立つ。(ああ今度は苛立ちの連鎖反応)
どこまでも一方的な感情、その矛先はどこに向けたらいい?どの方角に向ければ正しく僕のこころは晴れるんだろう?


ちりん、不意に澄んだ音が響いた。マスターが気まぐれに吊るした風鈴だ。いまは9月。夏はもう終わったというのに、いつまで吊るしておくつもりなのだろう。
喫茶店の窓際に吊るされて涼しくなりかけた風に吹かれている、ちゅうぶらりんな風鈴。ときどき思い出したように鳴く、なんの面白みもないありきたりな形の風鈴。
まるで僕みたいだ、なんて思ってしまったのはパチンコばっかしてる不精なマスターのせいだ。忌々しい。
「いつまでつけてんだ、あの風鈴?」
そして僕と同じように風鈴の存在に疑問を抱いている、目の前の、この男のせいでもある。まったく忌々しい。


「好きだといえば、いままでの関係が壊れるような相手を好きになってしまった場合、どうすればいいと思う?」
昔、僕たちがまだ制服を着てた頃、一度だけ、朝倉に聞いたことがある。馬鹿みたいに晴れた日の昼休みだった。季節は春の終わりで、空気も陽射しも、これでもかというくらい明るく、生々しかった。僕たちは誰も来ない非常階段に並んで腰掛け、僕は焼きそばパンを、朝倉はコンビニサンドイッチを食べていた。
「おまえだったらそういうときどうする?」
重ねて尋ねた僕を、朝倉はちらりと横目で見た。
「それってつまり、昔からずっと友達だったとか、そういう女を好きになった、てことか?」
「うん、そういうかんじ」
僕はしれっと嘘をついた。朝倉と友達でいつづけると選択した時点で、すでに、嘘には慣れていた。
「俺はやめる」
「やめるって…好きになるのを?」
「ああ」
色のない声で相槌を打ち、朝倉は指についたからしマヨネーズを舐め取った。赤い舌。一瞬目を奪われる、愚かな僕。(春はもう終わるというのに、若い人間は年中発情期だ)
朝倉は、サンドイッチを包んでいたセロファンをぐしゃぐしゃにまるめて、コンビニ袋に突っ込んだ。
「恋愛感情なんて錯覚みたいなもんだし。そんなのより、つるんでると楽しいとか、気が合うとか、そういう感情のがよっぽど確かだ」
「錯覚…」
「みたいなもんだろ。だって、好きとか可愛いとかヤりたいとか、愛着と親愛と性欲がまぜこぜになっちゃっててさ、なんつうか、ものすごくあやふやじゃん」


ちりん、風鈴の音が、空気のよどんだ僕たちの間に冷たく響く。
「なんで好きになったと思ったんだ?」
その音に促されるみたいに、浮かんだ疑問を口にする。
「名前呼んだとき、かざりがなにかきれいなものになった気がした」
なんだそれ。
「錯覚じゃないのか?」
僕のことばに、朝倉が一瞬こわばったのがわかった。そのまま黙り込んで、空になったグラスをことん、とカウンターのうえに置く。いつもは空になっても僕が取り上げて片付けるまで弄ぶのに。
「なんか、そういうの、朝倉っぽくない」
衝動を抑えられない。こんな攻撃は間違っているのに。
「…俺っぽく言えば、性欲プラス独占欲だ」
俺っぽくいえば、に重きを置いた言葉。僕はなにも言いかえせず、蛇口をひねる。


好きなんだ。どうしようもなく。どうしようもなく朝倉が好きだ。朝倉である必要性なんてどこにもないのに、朝倉じゃないと駄目だと僕のなかの何かが叫ぶ。朝倉じゃないと意味がない。ほしいのは朝倉だけ。どうして他の人間じゃだめなんだろう。僕にはそれすらわからない。わからないまま僕は朝倉を求め続ける。得られないことがわかっていながら、求めるのをやめられない。


「なあ新田、どうやったらひとは、他人を自分のものにできると思う?」
水音だけが響く空間に、朝倉の、朝倉っぽくない、感傷的な呟きが浮いた。
「…僕に聞くなよ」
自分の目の前にいる男が、同じことを自分に対して思っていることを知ったら、朝倉はどんな顔をするのだろう。動揺する?気持ち悪がる?それともいつものように少しだけ笑って、そんな感情、錯覚だよ、親愛と性欲がまざってるんだ、でも新田が男に欲情するとは知らなかった、とでも言うだろうか?
知りたくもない、そんなこと。僕が知りたいのは、朝倉と同じこと。どうやったら他人を自分のものにできる?
「馬鹿みたいだ」
それはどちらの言葉だっただろうか。
錯覚に溺れる馬鹿ふたり、どうせなら這い上がる方法を知らないまま死んでしまえばいい。












好きにならずに済むならそれに越したことはない











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