それは、もうすぐ春が来るというのに、やけに冷え込む3月の夜だった。
「おとうさんは、明日この家を出る。すごくすごく寂しいけど、風鈴とはサヨナラしなきゃいけない」
大きくて優しい手でわたしの髪を梳きながら、おとうさんは言った。おとうさんはほんとうに哀しそうな顔をしていて、その言葉が真実であることを、嫌になるくらい示していた。
「風鈴、約束して?風鈴は本当に好きなひとと、本当のしあわせを築くんだよ。必ず」
わたしの手をぎゅっと握って、おとうさんは言った。
「おとうさんは?おとうさんはここじゃしあわせになれないの?」
涙がぱた、ぱた、と零れてきて、枕にちいさな染みを幾つもつくった。一度流れ出した涙は止まることを知らず、あとからあとからどんどん流れてきて、息が苦しくなった。
ひいひいと呼吸もままならないほどに泣きじゃくるわたしをおとうさんは抱きしめて、赤ちゃんにするように、ぽん、ぽん、と背中を叩いてくれた。
あのとき、本当はおとうさんも泣いていたことに、わたしは気付いていた。わたしたちは抱き合ったまま、幼い子どもみたいに、ひいひい泣きじゃくっていた。
目を開けると、穏やかな眼でわたしを見下ろす、朝倉の顔が目に入った。
どうやら眠ってしまったらしい。過去の、苦い記憶を夢に見た気がする。おとうさんを失った日の夢を。
「大丈夫か?」
朝倉は、そう呟いて、わたしの額にかかる髪を手でそっとよけた。
「わたし、なんか寝言言った?」
「言ってたけど、むにゃむにゃ言ってて、よくわからなかった」
やわらかい声で告げられたそれは、明白な嘘だった。
わたしのおとうさんとおかあさんは、17年前に結婚した。ひとり娘だったおかあさんのために、おとうさんは婿養子になり、おじいちゃんの要望で、苗字も変えた。
二人はしあわせになる、はずだった。だけど、12年の結婚生活の果てに、おとうさんとおかあさんは離婚した。
3月の寒い日の夜、わたしに別れを告げたおとうさんは、わたしが泣き疲れて眠るのを見届けた後、その足で家を出て行ったらしい。翌朝、目を覚ましたときには、おとうさんは家の中のどこにもいなかった。お風呂場、台所、トイレ、押入れ、物置。おとうさんを探して歩くわたしを、おかあさんは黙って見ていた。
わたしは寝返りを打って、朝倉の身体にぴったりくっついた。朝倉の身体はこどもみたいにあたたかく、素朴ないい匂いがして、くっついているだけで、なんだか安心する。
「朝倉…」
「ん?」
朝倉の胸におでこを押し付けたまま、わたしは呼びかけた。
「わたしのおとうさんね、5年前に家を出ていったの」
いきなりそう告げたわたしを、朝倉は無言でもって受け入れた。
「出て行く前の晩、わたしの部屋に入ってきて、おとうさんは言ったの」
そっと顔を上げる。朝倉はいつになく、真摯な眼をしていた。
「『約束して。本当にすきなひとと、本当のしあわせを築くんだよ、必ず』」
おとうさんはきっと、何かの理由で、本当にすきなひとと、本当のしあわせを築けなかったのだろう。
そして、そのことをずっと抱えたまま、おかあさんと結婚し、わたしという子どもを生し、家族ごっこに甘んじながら、だけど、その空虚を埋められなかったのだろう。
本当にすきなひとを、本当のしあわせを、得られなかった空虚を。
「ねえ朝倉。わたしのこと好き?」
「好きだよ」
静かな声で朝倉は言った。
「じゃあ、新田さんは?」
「え、」
「新田さんのことは好き?」
黙り込んでしまった朝倉の、荒れてかさついた手に触れてみる。
新田さんはこの手の代わりにおとうさんに縋った。わたしはおとうさんの代わりに、この手に縋った。
朝倉が、苦しそうな顔でわたしを見つめていた。
きっと、わたしと朝倉は、本当のしあわせを築くことはできない。これは確信に近い予感だ。
わたしたちはみんな似た者同士だ。本当に欲しいものを手に入れられなくて、代わりのものばかり求めている。
「もうやめよう、朝倉」
静まり返った室内は、微かな空調の音しか聞こえない。雨の音もしなかった。
あんなにわたしを濡らした雨は、いつのまにかすっかり止んでいたのだ。