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真夜中ノ逢瀬



鬱蒼と草が茂った道を、まるい懐中電灯の灯りを見つめながら僕は黙々と歩いた。夜の空気はしんと静まりかえっていて、草を踏む靴底が立てるかすかな音さえ拾い上げ、あたりに響かせる。ざく、ざく、ざく。
この草深い道は村を臨む高台に通じる一本道だ。そこには村でいちばん大きな墓地が広がっている。昼間ならば、訪れる人のひとり、ふたりはいるかもしれないが、こんな真夜中に、そんな場所に行く人間なんていやしない。ざく、ざく、ざく。僕は歩き続ける。ほう、どこかでふくろうが鳴いた。ため息のような声だ。救いのない世界を嘆いている。


僕とリナが出会ったのは5月で、青々と茂る若葉が眩しい頃だった。たったひとりの家族である兄が「結婚しようと思っている」、そう言って連れてきた女がリナだった。
僕はリナを見たその瞬間に恋に落ちた。視覚と感情が直結したかのように、僕は彼女から目を逸らせないまま、彼女を愛したいと強く思った。
そんな僕の思いを知らない二人は、6月の初め、ささやかな結婚式を挙げ、三人での生活を始めてしまった。

夏休みが始まる頃、僕はリナに自分の思いを告げた。驚いたことに、リナは僕を拒まなかった。それどころか、「わたしも、あなたを初めて見たとき、あなたを愛したいと思った」と、悲しそうに目を伏せて言った。僕はそれを聞いて、有頂天になった。
そして、愚行に走った。リナを愛するあまりに、この世でたったひとりの兄を、裏切ったのだ。
週に一度、リナは、僕が用意した睡眠薬を兄のコーヒーに入れた。そして真夜中、ぐっすり眠った兄をベッドに残して、彼女は部屋を出る。足音を忍ばせ、静かにドアを開け、僕のベッドに潜り込む。僕は、薄い水色のネグリジェを着た彼女を抱き寄せ、石鹸の儚い香りを吸い込む。抱いた腕に力をこめると、ほう、とリナはため息をついた。それは期待と幸福に満ちていた。
裏切りと紙一重の逢瀬は、若い僕にはひどく甘美だった。リナはうつくしく、優しくて、しなやかな長い腕で僕を抱きしめてくれた。
今思えば馬鹿みたいだけど、僕は、その脆弱な幸福が、ずっとずっと、永遠に続いていくと思っていたのだ。


異変が起こったのは、秋の終わりだった。リナは体調を崩し、ベッドに臥せったまま、ずっと口を利かなかった。僕は、仕事に忙しい兄の代わりに、彼女を看病していたけど、僕に対しても、一言も、何も、言ってくれなかった。僕がいない間、彼女が泣いていることは、微かに熱をもった瞼を見れば一目瞭然だった。どうして泣いているのか問いただしたかったけど、彼女は絶対に何も言わないだろうことも、明らかだった。


空気がぴんと張り詰め、冬が近づいてきたある日、リナは、真夜中の風呂場で手首を切って死んだ。
最初にリナの遺体を見つけたのは僕だった。ざあざあと流れる水が、おびただしい量の血を混じらせて、季節はずれの薄水色のネグリジェをしとどに濡らしていた。
おそるおそる触れた肌には温度がなく、呼吸も、脈拍も、彼女が事切れていることを示していた。
眩暈がして、立っていられなくなった。ばしゃりと音を立てて膝から崩れ落ちると、じわじわと服に水が染み込んできた。冷たい。僕も冷たくなりたい。リナと同じように、冷たくなりたい。温めあうことができた僕たちならば、きっとできる。僕も、リナと同じ場所へ。
水音に気付いた兄が起きてくるまで、僕はずぶ濡れのまま、リナを抱きしめていた。


彼女の遺体を調べた医者が「リナは身篭っていた」と告げた瞬間、僕はこの世から消えてなくなりたいと思った。彼女は一人で悩み、苦しみ、命を絶ったのだ。
「おまえのせいだ」
うめくように兄は言った。リナと兄の間に、性的な関係がなかったことを、僕はそのとき初めて知った。
僕はリナの葬儀が終わった後、その足で、故郷を出た。以来、僕は一度も、故郷の土を踏んでいない。
だけど今日は、今夜は、リナが命を絶って、ちょうど一年だ。リナに会いたかった。会いたくて会いたくて、気がつけば足は故郷へと向かっていた。


坂道を登りきると、不意に視界が開けた。点々と建つ墓石が、月明りの下、青白く浮かび上がる。
「リナ、会いに来たよ」
真新しい墓の前に佇んで、僕は呟いた。
「会いたかった」
青白い墓石を抱きしめる。冷たく、固く、少しだけ湿り気を帯びたそれは、あのとき抱きしめつづけたリナの身体を思い出させた。
僕は立ち上がると、墓石の下を掘り始めた。ざっ、ばさ。ざっ、ばさ。ざっ、ばさ。土を掻いては盛る音が静かな墓地に響く。
この下にある柩を暴いたところで、そこにあるのは、骨になったリナの身体だ。
だけど、ただの物体になったそれでも、僕は会いたかった。会って、触れて、リナを思いたかった。


ざっ、ばさ。ざっ、ばさ。ざっ、ばさ。ひたすら、一心不乱に掘り続ける。何度か掘り進むうちに、がつっと、シャベルが何かにぶつかった。埋まらないように土を掻き分けると、白い柩が現れた。僕はちいさなシャベルに持ち替えると、周囲の土を丁寧に取り除き、固く閉じられた蓋にバールをあてがって、力任せに抉じ開けた。
「リナ!」
しかし、そこにあったのはただの空間だった。空を切った僕の手が触れたのは、見覚えのある手袋。茶色いなめし革でできたそれは、リナが贈ったという兄の手袋だった。
つまり、そういうことだ。ただの物体になったリナでも、そばに居たい、居て欲しいと願う人物は僕だけじゃなかった。

ほう、どこか遠くで、ふくろうが鳴いた。









25時のふくろう






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