取り残された男



アルコールの匂いが微かに漂う終電を降りる。地下鉄のホームは寒い。車内が過ぎるほどに暖かかったから、余計にその冷たさが身にしみた。足早にホームを歩き、慣れた仕草で改札を抜け、強い風が吹き込んでくる階段をのぼった。

「いらっしゃいませ」
階段を上がってすぐのコンビニに入ると、若い女性店員の明るい声が出迎えた。日付が変わるような、こんな時間に女の子が店番をするのは防犯上良くないんじゃないかという思いがちらりとかすめる。いつもにこにこ笑っていて、親切な彼女に対して少なからず好感を持っているだけに、余計に。
いつだって、「いなくなってほしくない人」ほど、あっさりと目の前から消えてしまうものだから。
「お弁当あたためますか?」
はい、と答えた声は、まるで慰めてほしいみたいに弱々しい声だった。
レンジで温まるのを待ちながら、僕は別の客のレジうちを始めた女性の手元をなんとなく眺める。ちいさな、頼りないこどものような手だ。去っていたあの人も、ちいさな手をしていた。ほのかに赤みを帯びた、やわらかい手のひらをしていた。僕の背中に触れた、その感触をいまでも鮮明に思い出せる。


熱のこもった弁当入りのビニール袋を受け取って、僕はコンビニをあとにした。アパートまでは歩いて5分ほど。深夜だというのに駅前はそれなりに人が多い。騒がしい高校生の集団、帰り路を急ぐ大人、寄り添いあって歩く恋人。
そのなかで僕がずば抜けてみじめだと思う。実際にそんなことはないけど、そう思うのはしかたない。だって僕は取り残された男なのだ。暖かくやわらかな、あんなに慈悲深い手にすら見放された、みじめな男なのだ。


アパートの鍵を開けて中に入り、壁を探って電気をつける。コートを脱ぎ捨て、卓袱台の上に買ってきた弁当を無造作に置いてから、テレビをつけた。とたんに騒がしくなる室内。だけど、他人の笑い声など聞いたところで、虚しさは増すばかりだ。
僕は転がっているリモコンを拾って、テレビの音量を落とした。狭い台所に行って冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐ。それも卓袱台に置いたあとで、畳の上に座り込む。
弁当に手をつける前に、傍らで丸まっているさっき脱ぎ捨てたコートのポケットから携帯を取り出して画面を確認した。彼女からのメールや着信はない。二週間前の着信が最後だった。これが履歴から消えてしまえば、僕のもとには彼女の痕跡すらなくなる。

彼女がいなくなったというのに、日々は穏やかに流れていて、僕はいつものように毎日呼吸をし、歩き、ごはんを食べ、水を飲み、誰かと話す。コンビニの店員に好感を持ったりする。ただ、彼女という存在が欠けただけで、それ以外は何も変わらない日々。
それだけで済むはずがないと思っていたのに、現実はそんなものだ。彼女がいなくなったら呼吸もできないと思ってた。動く気力もわかないと思ってた。そのまま、緩慢に死んでいくんじゃないかと思ってた。だけど、僕は以前と変わりなく、きわめて普通に生きている。
その事実は僕を落胆させる。


満たされたグラスをいっきに呷る。のどを通り過ぎてゆくそれは、冷たくてうまい。こうして今日もまた、彼女のいない日が終わる。
何の感情も呼び起こさないまま、まるで水をごくごくと飲み干すように、僕の夜は更けていく。









静寂はただ漠然と






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