わたしが通っていた中学校には、特別教室棟の3階、東側の一番端に、もう使われていない教室があった。
もともとは社会科資料室だったというその部屋は、3年前の夏に立ち入り禁止になっていた。当時中学2年生だった女子生徒が、その部屋の窓から飛び降りて死んだからだ。
ぺた、ぺた、ぺた。
誰もいない学校の廊下は、やけに足音が響く。非常灯のぼんやりした灯りだけが照らす空間。怖くないといえば嘘になる。
だけど、わたしはここに来なければならない。それがわたしにできる、唯一の贖罪だから。
立ち入り禁止と貼られたドアの前で、立ち止まる。一度だけ深呼吸をして、そっとドアを開ける。するすると魔法みたいに、鍵がかかっていたはずのドアは開き、わたしは、あの頃からまったく変わらない顔と1年ぶりの対面を果たす。
「あれ、伊織?」
一瞬、不思議そうな顔をした千紗は、でもすぐに、いつもの人懐っこい笑みを浮かべた。月明かりに照らされるその姿は、この世の幻。
中は静かで、埃くさい。電灯がはずされているから、わたしは持ってきた懐中電灯を床に置いて灯りの代わりにした。千紗はぼんやりとその灯りを見つめている。
「わたし、なんでここにいるんだろう?」
「…寝てたんでしょ。どこにもいないから、探し回っちゃった」
毎年、わたしは同じ理由を口にする。
「そっか」
千紗は、少し笑って、受け入れる。
「言われてみれば、すごく長い間、寝てたような気がする」
何かがおかしいとわかっているけど、現実を直視するのを、彼女は拒否する。
「もう暗くなってるしね」
だからわたしも、できるだけ、ごく日常的な感じに、笑う。
「もうみんな帰ったの?」
首を傾げるのは千紗の可愛らしい癖だ。変わらない、3年前に時を止めてしまった、その姿。
「うん。たぶん、もう、わたしたちだけ」
「そっか。なんか、伊織と二人だけって久しぶりだね」
心臓が、どくんと音をたてる。千紗が苦しかったとき、何も知らずにいた自分の過失を、思い知らされて。
千紗が、部活の仲間から執拗ないやがらせを受けていたのを、わたしは、何一つ、知らずにいた。
中学生になって、別のクラスになって、別の部活に入って、わたしたちは、それぞれに、違う仲間を持ち、違う日常世界をつくった。お互いに友達であるのは確かだったけれど、わたしは、県の代表になるようなチームのレギュラー争いで必死だった。千紗は千紗で、充実した日々を送っていると思っていた。
彼女があんなに苦しんでいただなんて、考えもしなかった。
「伊織ちゃん、なにも知らない?なにか知っていたら、お願いだから教えて」
お葬式の日、千紗のお母さんから涙ながらに懇願された。
わたしは何も言えなかった。
ごめんなさい、わたし何も知らなかった、わたし、千紗のこと何も知らなかった。
そんな言葉が頭の中をぐるぐると回って、くらくらと、眩暈がした。
もう瞼を開くことのない、おそろしく白い千紗の顔を見ていると、心臓が凍りつき、罪悪感と後悔で吐き気がした。わたしが愚かだったせいで、自分のことしか考えてなかったせいで、千紗は死んだのだ。
「ごめんね」
ぽつりと呟いたわたしを、千紗は不思議そうに見た。
「ここにたどりつくまで、ずいぶん時間がかかっちゃった」
「そんなの」
千紗がくすっと笑った。
「しかたないよ。伊織はわたしがここを秘密の居場所にしてるなんて知らなかったじゃない」
そう、知らなかった。
だからと言って、許されることじゃない。
でも今だけは、今、千紗が目の前に、昔と変わらない姿で戻ってきてくれた今だけは、1年ぶりの再会を噛みしめていたい。
たとえこれが、わたしの罪悪感が作り出した幻だったとしても。
夜通しふたりで過ごした。
「そろそろ帰ろうか」
空が白み始める頃、わたしは立ち上がった。千紗もうなずいて、同じように立ち上がる。
「…じゃあ、またね」
「うん、また明日」
千紗は最後に、楽しそうに、笑った。窓から差し込んできた朝の清らかな光が、その笑顔をすうっとかき消した。瞬きをする間に、千紗の姿はあとかたもなく消えた。千紗が飛びおりた窓が、夏の生気に満ちた光を反射して、白く光っていた。
千紗がこの世界から消えた夜、わたしたちは再会する。
来年も、わたしはここに来るだろう。同じ日の、同じ夜に、同じ場所で、わたしたちは再会するだろう。
本当に千紗の魂が舞い戻っているのか、それともただの幻なのか、実際のところ、そんなことは、どちらでもいい。
だって、ここは、後悔に塗れたわたしの、束の間の楽園だから。
早朝の廊下に、わたしのたてる足音だけが響いていた。重い、重い、足音が。
響く足音
戻ル